2012-08-30

イエスとの出合い(10)ー天路歴程・地路歴程11

【末世とメシヤ再来】

高齢化社会に入り、人は老いと深刻な病と、様々な災難に遭い生活難に直面している。

若者たちも例外ではない。

この国の現実から逃避は不可能だし、自殺者も増えている。

希望を喪失した人間を待ち受けているのは奈落のどん底である。

良い面もあるが、様々な形で過去の悪政、失政、無責任、怠慢が問われ、国の内外での信頼度は著しく低下した。

侮蔑され今までの分、そのつけが、社会的弱者に皺寄せされている。

軍事基地、原発被害、大災害の復興計画の遅延、国境問題、地球汚染など。

国民を始末に負えない危険に曝し、嘘をつき。馬鹿にした言動を平然と放つ、原子力発電業界。

それに加担する原子力村の住人、監督官庁、政治家、財界との癒着等々。深刻な問題は数え切れない。

われわれ国民が選んだ政治家は、主人たる国民を侮り、党利党略にうつつをぬかす。

最低の政治家ばかり選んだのはわたしたち主権者たる国民である。

その場しのぎの大衆迎合主教。腹立たしいことばかりである。

わたしたち主権者の手で正常な政治を取り戻し、疲弊した祖国を建て直さなければならない。

政治や行政、官僚への信頼感は、どん底まで墜ちた。昔の日本人は"嘘をついて恥じない"日本人ではなかったはずである。

徳川幕府が鎖国を解いた時代、来日した西欧人、文明社会の先進国の人々は、穏和で礼儀正しい日本人を称賛している。

あの日本人はどこに消えてしまったのか?

巷では、メシヤを自称する輩、偽物が横行し、大衆の心を操る。

末世の時代に人々は危惧を感じ取っている。

もし?わたしたちの前に、本物のメシヤが再来したら、わたしたちはどのようにして、真偽を見極めるのか?

その時如何に対応するのか?深刻な問いが横たわる。

日本人は今、神に試されている。

【救い】


洗礼者ヨハネが現れた時代。

ヨルダン川に押し寄せる人々に、"蝮の子等よと"、激しい言葉を浴びせながらも、ヨハネはさ迷える魂を救済した。

イエス・キリスト、出現後、二千年の時を経てなお、その時代ごとに人間は同じ過ちを国々で繰り返してきた。

神はご自身に似せて創造された人間を何故?かくも堕落させたのか?不思議でならない。

み子・イエス・キリストの教会を地上に増やし、ユダヤ教や他の宗教を減らす?そんなちやちな御方が創造主であるはずがない。

創世記は、単なる一宗一派の域を超えている。

話しは変わるが、日本の現実を考えるとき、遠大な目標無しに、この国の幸せな未来は構築不可能だと思う。遠大なビジョンが欠けている。

資源は乏しいが、優れた人材はたくさん埋もれている。

彼らにチャンスを与える身近な血の通った選択肢、メニューを国が(政治家が)本気になれば提供できるし、多くの人々が仕事を得て海外に出かけていく。

中国華僑、ユダヤ人をお手本にする。

彼らは祖国を離れて、世界中を相手に生きてきた。

国も平和的に発展する。

現実は決して甘くないことは承知の上であるが提案する。

【諦めない!】

メシヤ・イエス・キリストの出現で何がどう変化したのか?その真意がはっきりする時代にわたしたち人類は立たされているのかもしれない?

時代と国を隔てた壁は、ユダヤ人がメシヤの出現を強く待ち望んだ、時代背景が酷似している。

ユダヤ人を統一した、アンティパルテ(前55-43)在位の第二子ヘロデ大王は、キリスト降誕に不安に駆られベツレヘムの幼子を虐殺した。

彼は70歳で(前4年)悪病にかかり死亡した。

その孫ヘロデ・アグリッパは自分の誕生日の宴で義理の娘、サロメの妖艶な踊りの歓心を買うために褒美として、洗礼者ヨハネを斬首しサロメに与えた。

かの悪名高いヘロデ・アグリッパも絶頂期に急死した。(使徒12:20-23)

天罰を受けた。

ヘロデ一族の人脈は複雑怪奇である。容易に彼らの生活の仔細には、私は辿り着けない。

フィリッポ・リッピ「ヘロデの宴」1452−56

しかし過去、現在、未来は共有出来る。

まだ人間の精神性は未発達の段階の過渡期にあると言われる。

思慮深く考えてみると神が人間を造り損なったのではない!

み子・イエス・キリストは人類が進化する

お手本であると考えると合点がいく。

イエスは新人類(ミュータント)である。

今は未熟でも人類はイエス・キリストを目指して進化する。

まだまだ道は険しく、遥か彼方にあるが、永遠の朽ちない道に繋がっている。

時間の壁は神のご意志で乗り越えられると信じている。

続きます。

愛の樹オショチ†

2012-08-27

義人ヨブ記(job)35

エリフは更に言った。
「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」
 とあなたは言っているが
あなたのこの考えは正当だろうか。

またあなたは言う。
「わたしが過ちを犯したとしても
あなたに何の利益があり
わたしにどれほどの得があるのか。」

あなたに、また傍らにいる友人たちに
わたしはひとこと言いたい。

天を仰ぎ、よく見よ。
頭上高く行く雲を眺めよ。

あなたが過ちを犯したとしても
神にとってどれほどのことだろうか。

繰り返し背いたとしても
 神にとってそれが何であろう。

あなたが正しくあっても
 それで神に何かを与えることになり

神があなたの手から
 何かを受け取ることになるだろうか。

あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に

あなたが正しくても
 それは人の子にかかわるだけなのだ。

抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ
権力者の腕にひしがれて、助けを求める。

しかし、だれも言わない
「どこにいますのか、わたしの造り主なる神
夜、歌を与える方

地の獣によって教え
空の鳥によって知恵を授ける方は」と。

だから、叫んでも答えてくださらないのだ。
 悪者が高慢にふるまうからだ。

神は偽りを聞かれず
全能者はそれを顧みられない。

あなたは神を見ることができないと言うが
あなたの訴えは御前にある。
あなたは神を待つべきなのだ。

今はまだ、怒りの時ではなく
神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので

ヨブは空しく口数を増し
愚かにも言葉を重ねている。

(ヨブ記 第35章)

続きます。

愛の樹オショチ†

ジャン・フーケ「エティエンヌ・シュバリエの祈祷書」 1452~42

2012-08-26

義人ヨブ記(job)34

エリフは更に言った。

知恵ある者はわたしの言葉を聞き/知識ある者はわたしに耳を傾けよ。

耳は言葉を聞き分け/口は食べ物を味わう。

わたしたちは何が正しいかを見分け/何が善いかを識別しよう。

ヨブはこう言っている。「わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。

わたしは正しいのに、うそつきとされ/罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。」

ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし

悪を行う者にくみし/神に逆らう者と共に歩む。

「神に喜ばれようとしても/何の益もない」と彼は言っている。

さて、分別ある者は、わたしの言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。

神は人間の行いに従って報い/おのおのの歩みに従って与えられるのだ。

神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない。

誰が神に全地をゆだね/全世界を負わせたというのか。

もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら

生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返るだろう。

理解しようとして、これを聞け。わたしの語る声に耳を傾けよ。

正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方を/あなたは罪に定めるのか。

王者に向かって「ならず者」と言い/貴い方に向かって「逆らう者」と言うのか。

身分の高い者をひいきすることも/貴族を貧者より尊重することもないお方/御手によってすべての人は造られた。

これらの人も瞬く間に/しかも真夜中に、死んでいく。権力ある者は身を震わせて消え去り/力ある者は人の手によらず、退けられる。

神は人の歩む道に目を注ぎ/その一歩一歩を見ておられる。

悪を行う者が身を隠そうとしても/暗黒もなければ、死の闇もない。

人は神の前に出て裁きを受けるのだが/神はその時を定めてはおられない。

数知れない権力者を打ち倒し/彼らに代えて他の人々を立てられる。

彼らの行いを知っておられるので/夜の間にそれを覆し、彼らを砕き

神に逆らう者として/見せしめに、彼らを打たれる。

彼らが神に従わず/その道を何ひとつ受け入れなかったからだ。

その時、弱い者の叫びは神に届き/貧しい者の叫びは聞かれる。

神が黙っておられるのに/罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに/目を注ぐ者があろうか/国に対してであれ人間に対してであれ。

神は、神を無視する者が王となり/民を罠にかけることがないようにされる。

人が神に対してこう言ったとする。「わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。

わたしには見えないことを、示してください。わたしは不正を行いましたが/もういたしません。」

この言葉にどう報いるかを決めるのはあなたか。あなたは神を軽んじているではないか。態度を決めるのは、わたしではなくあなただ。よく考えて話しなさい。

理解ある人はわたしに言うだろう。知恵ある人はわたしに同意するだろう。

「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮に欠けている。

悪人のような答え方をヨブはする。彼を徹底的に試すべきだ。

まことに彼は過ちに加えて罪を犯し/わたしたちに疑惑の念を起こさせ/神に向かってまくしたてている。」

「ヨブとその妻」アルベルト・デューラー(1503−4)

イエスとの出合い(9)ー天路歴程・地路歴程10

【按手】

退学時、私は先生から聖職者となる按手礼を秘かに受けた。

按手→頭に手を置き神の権威,祝福を受ける儀式。(創世記48:14,マタイ19:15,民数記8:10,27:18-23)

新しい人生の門出となった。

【断食】

箱根大涌谷、7日目。

宵の明星、金星を見つめていた。

星は西に傾きながら夜明け前の一瞬の暗闇に覆うわれていく。

しばらくすると、夜のベールを宇宙の巨人が静かに剥がしていく。

山の稜線が薄い紅化粧して恥じらいを見せている。壮大な宇宙シヨーを眺めていたら、空腹感は消え、高揚感が湧いてきた。

清浄な山の霊気にうたれ霊感に浸されている実感がある。

残りの水を飲んだ。

舌に甘味を感じた。

辺りを見回し頭を下げ合掌して、馬酔→あしびのツツジの林のなかのゴツゴツした火山岩を腹這いして抜けだし、箱根神社の境内にいた。

ここには長年、信仰的に尊敬するお方がおられる。

神社と寺が混在する、不思議な杉の大木に囲まれた奥まった場所に風雨に曝されて長年孤高の立ち姿を変えてはいない。

優しく、毅然とした姿に永遠の生命を感じた。

緑青が長年の風雨に耐えてきた証である。

私は物言わぬお方に断食終了と誓願を報告した。

そのお方は、浄土真宗の始祖親鸞上人である。ふるさと日田の我が家の菩提寺で子供の頃から親しんだお方であった。罰が当たりそうだが、身内の親しさがある。

【洗礼者ヨハネ】
私は荒野に住む、洗礼者ヨハネにも親近感を抱いていた。

彼の人生は破天荒である。

洗礼は今は、キリスト教会において、新しい会員になるための大事な儀式となっているが、ヨハネやエッセネ派の人々が行っていた洗礼は体を清めることによって罪も清めると言う、当時のユダヤ人がミクヴエ(水槽の中で行う沐浴の儀式)であったと言われる。

マタイ伝の記者は次の様に記述している。

イエスが壮年になった頃、ヨハネはヨルダン川に現れた。

そして、ヨルダン川のほとりで、人々にバプテスマをほどこしていた。

しかしヨハネは言った。

「わたしより力のある方が、後からおいでになる。わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう。」

イエスもナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

イエスが水から上がると、神の霊が鳩のごとく降り(くだり)、
神の声が聞こえたという。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3章)。

ヨハネに触れたらきりがない。

ヨハネはその時代の神の預言者として、又、乱れた政治、特に、ヘロデ・アグリッパ王とその妻ヘロデアに神に従い犯した罪を悔い改めよ!と激しく迫った。後述する。

「洗礼者ヨハネ」レオナルド・ダ・ビンチ画


【書くことの大変さ】

泣き言、愚痴のように聞こえるが、たかが自分史を書くのも大変である。

先ず、自分と闘わなければならない。理由はいくつかあるが、持病と闘い、物忘れとも闘わなければならない。

書きっぱなしの自分史、回顧録は無意味だし虚しいから書きたくもない。

書く価値もない。

私が書きたいのは神の奇跡の体験談と感謝の気持ち。

更に大事なことは来世、天国の消息である。

あまり飛躍的になるとミスのリスクも高まるので、過去を整理しながら、最後の奇跡、肉体の死を超えた世界に到達したい。

未来志向なら書く気持ちになる。

そのためにも聖書の中から出来るだけ正確に神を知り、み子に触れたい。

記憶力がだんだん薄れていくから、聖書辞典、他の文献も参考にさせてもらう。

そうしながら特に年代、人物、様々な時代背景を取り込んで欠けた部分を補う。呆け防止にも役立つ。

まだ全て学んだ記憶を失った訳ではないが、ある種の不安はつきまとう。今でも学習によって、多少の記憶の欠けた部分は埋められるが出来ないことがある。

それは一瞬の閃きである。

記憶に残らないから始末に悪い。

私は身近にペンとメモ帳を置いて寝る。

夜中だろうがなんだろうが時間とは無関係である。

最近、天路歴程・地路歴程は、加齢を楽しむ気持ちにピッタリくる仕事に思えてきた。

続きます。

愛の樹オショチ†

追伸:処暑を過ぎても厳しい暑さが続きます。私事ですがお気遣いのメールをいただき、ありがとうございます。感謝いたします。

今週の聖句 8月26日~9月1日

詩篇63篇
ユダの野にあったときによんだダビデの歌

神よ、あなたはわたしの神、
わたしは切にあなたをたずね求め、
わが魂はあなたをかわき望む。
水なき、かわき衰えた地にあるように、
わが肉体はあなたを慕いこがれる。

それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、
聖所にあって目をあなたに注いだ。

あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、
わがくちびるはあなたをほめたたえる。

わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、
手をあげて、み名を呼びまつる。

わたしが床の上であなたを思いだし、
夜のふけるままにあなたを深く思うとき、
わたしの魂は髄とあぶらとをもって
もてなされるように飽き足り、
わたしの口は喜びのくちびるをもって
あなたをほめたたえる。

あなたはわたしの助けとなられたゆえ、
わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。

わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。

しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は
地の深き所に行き、

つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。

しかし王は神にあって喜び、
神によって誓う者はみな誇ることができる。
偽りを言う者の口はふさがれるからである。

2012-08-24

イエスとの出合い(8)ー天路歴程・地路歴程9

【学舎】

神学校の講義は、静かな黙想から始まった。

それから賛美歌を肩を組み合って歌う。

変わった歌い方であった。

その日、先生の目に留まった者が祈る†

魂を揺する祈りであった。

聖書講義が始まると不思議な雰囲気に包まれた。

辺りに聖霊の臨在感が漂う。

私は物理学者の友人に助けられて少しずつ覚えていった。

ヘブル語、ギリシャ語に、カタカナをふった。

時々、ヘブル語の歌を歌った。

黒板にヘブル語が書かれ、カタカナのルビがふられ、その下に意味が解説されている。

たとえば、旧約聖書の詩編57:9は、ダビデの神に対する切ない思いが、すーっと入り込んできた。

目覚めよ、わたしの誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。

♪ウラウラウラケボデー、ウラウラウラハネベール♪

哀調を帯びた歌に聞こえた。

物見の兵士が、長い夜、夜明けを待ち侘びて、夜空を見上げながら、竪琴を弾いて曙を呼び覚ます。

如何にダビデが神を慕い待ち侘び、求めていたかその心が伝わった。

わたしは感動しながら歌った♪

【二年目の春】


突然先生の部屋に呼ばれた。

一人であった。

しばらく間を置いて、先生が口を開いた。

「授業はどうですか?進んでいますか?」

当たり障りのない質問であった。

何か大事な話があるに違いないと考えて、私から思い切って尋ねた。

「先生、私に何か大事なお話があるのでは?差し支えなければ、お話しください」と、きりこんだ。

黙って腕組みしていた先生から意外な言葉が飛び出した。

「君の二年目以降の授業はやめにする」

私は驚きを隠せなかった。

「やはり私にここの授業は無理でしたか?」

「わかりました。退学届けを出します」と、答えて頭を下げた。

びっくりしたのはその後である。

いや違う!実は、君に是非とも頼みたいことがあります。僕の生涯の夢です。教団が大きくなり過ぎて、夢が叶いません。わたしたちの知らないところで、わたしたちの指の間から、砂がこぼれ落ちるように本当に助けたい魂が、こぼれ落ちています。

なんとかしたい。私は君のような魂の持ち主が現れるのを待っていました。イエスのようにどん底の魂のために、私に出来なかった使命に投げ身してください。身代わりを頼みたい!

ここの授業は原則三年間ですが繰り上げ卒業とします。中には十年間も通っている人も居ますがね!

ここで君が学ぶことはありません。私もこれ以上教えることはありません。

ここの酸素は君に足りない!

と、頭を下げられた。 

「皆には私から君の繰り上げ卒業を伝えます。」

繰り上げ卒業は意外中の意外であった。

その日静かに学舍を後にした。

神の御旨なら従う他はない。

しかし寂寥感は拭えない。

師は故・吉村騏一郎先生であった。

銀行員から宗教家になられ、イエスのふるさと、イスラエルで本格的に学んだ師であった。

シオニストではない。

癌で亡くなられたと後日訃報が届いた。

涙がこぼれてとまらない。

先生との出合いから、もう四十年の歳月が流れた。



【独立伝道】

私は先生との約束を果たすために、真剣に考えに考えて、先ず山に入り、一週間の断食から始めた。

場所は箱根、大涌谷の馬酔(あしび→ツジ科)の林の奥の大きな岩穴であった。

風向きに気をつけた。

地底から吹き上げる白い蒸気に混じってガスが立ち込めていた。

天気の好い日は蝶々が翔んできた。

足元で蟻たちがせっせと働いている。

たまに足にはい上がってくる。

薄は地中深く根を張り、地上に背の低い尖った葉を少し伸ばしていた。

昆虫も植物も環境に一番適した生き方を本能的に選んでいる。

感心しながら、空腹に耐えていた。 

苦難に満ちた独立伝道の始まりであった。

キリスト教の仲間から異端視され、気が狂った男、ペスト、コレラ菌を持った危険な男と陰口を叩かれ、私は甘んじて陰口を引き受けた。

続きます。

愛の樹オショチ†
 大涌谷

2012-08-20

イエスとの出合い(7)ー天路歴程・地路歴程8

【召命】

ある教団の信仰者から誘われて代表者に直に面会した。

私を誘ったY君は口腔外科医で自分が教団の神学校(塾)に入学を望んでいた節がある。

私は彼の付き添い役でしかなかった。

しかし事態は思いがけない方向に展開して行った。

校長(塾頭)先生が入学を許可したのは他ならぬ、付き添い役の私であった。

温顔に微笑をたたえた先生の書斎で気楽に、何気ない会話を交しながら、ふと気付くと、先生の目は鋭く光っていた。

目の前の先生の鋭い視線は、私に向けられている。

緊張した。

「何故ここにきたのか」と、問われた。

私は包み隠さず事実を話した。

「君自身はイエスについて何を感じるか?また、我々教団の信仰をどのように理解しているのか?」と質問された。

私はイエスの弟子のように、「なりきりたい!」と咄嗟に答えた。

考えるいとまのない突然の質問に咄嗟の答えは私の本心以外の何ものでもない。

先生は静かに頷いた。

【同級生】


予感が的中して、全員80名ばかりの小さな学舎に入学した初日に、紹介されて渡されたテキストを見てたまげた!

いきなり、ヘブル語とギリシャ語の講義である。

ちんぷんかんぷん?

周りを見渡すと、皆黙って真剣に目を通している。

私の横にいた人に尋ねた。

"読めるんですか?わかるんですか?意味が?"

彼は、「はい!大体は」と答えた。

"いつもこのような講義ばかりですか?"

「いや、たまにあります。何しろ聖書は出来るだけ原書を正確に読んでいかないとイエスのご生涯や弟子たち、当時の世界観、日々の生活の実体に触れることは不可能です。それから聖書の文字の字面を眺めて、棒読みしても無駄でしょう!ここの特徴はイメージアップして、聖句の行間を心読することです。聖書の生活をリアルタイムで追体験する学舎ですよ。」

この言葉を聞いて私は落ち込んでしまった。

彼の仕事を聞いた。

昼間は理化学研究所で天文学をやっている理学博士であった。

彼は、宇宙観測中、ブラックホール(暗黒星)を偶々見付けて興奮した話を聞かせてくれた。

宇宙観測は天地創造の不可思議と創造主の無限に近づく謎解きです。

左側に、大学の国文学の教授もいた。

多才、俊才に囲まれて私は戸惑い、ここは私に向かないと諦めかけていた。

【闇夜のカラス】

"闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば生まれぬ先の父ぞ恋しき?"

突然、聖書と無関係の質問が先生に浴びせかけられた。

この意味が理解出来るか?と問われた。

80人近い仲間がいたが皆黙っていた。

先生は真言密教を引き合いに出し、わたしたちに、ヒントとして、これは密教の呪文のようなものと言われた。

日本人が、イエス・キリストについて学ぶとき、仏教も学ぶべし!日本人の宗教的感性は優れている。

理性で解こうとすると解けない。

「不立文字」だと言われた。

言葉では解けない。

心で解きなさい。

まるで禅僧の問答のようであった。

禅僧の間には賊問と言うやりとりがあると聞いたことがある。

相手の意表を突いた一見意味不明の言葉のやりとりで見えないもの、理解不可能を可能にする、精神力を鍛え、高め真理を会得するやり方だと、かって、田舎の和尚に教えてもらったことを思い出した。

「第一、闇の夜に黒いカラスが見えるか?
第二に、鳴かぬカラスの声が聞けるか?
第三に、これがこの句の作者が伝えたかった大事な言葉である。
まだ、この世に生まれておらぬ子が 見たこともない、父を恋い慕う?これは理性で解けない謎だ!」と言われた。

後の説明はなしであった。

先生独自の言葉で「父とみ子・イエス・キリストの関係を解くヒント」だとわかったのはかなり後の日であった。


【サウロからパウロへ】

話しは変わるが、イエスの弟子に変えられた、タルソ生まれのサウロはユダヤ人の中のエリートで、ローマの貴族の位を持っ人物であり、当時、異端視されたキリスト教徒、クリスチャン狩り(迫害)の急先鋒であった。

そのサウロが、クリスチャン狩りの、ダマスコ途上、キリストの霊光に射たれ三日間、失明した。彼は恐怖心に駆られ、食事も喉を通らなかった。

「サウロよ!サウロよ!あなたは何故、わたしを迫害するのか?」

彼は不思議な声を聞いた。

サウロは畏れおののき答えた。

「主よ!あなたはどなたですか?」

イエスは答えた。

「あなたが迫害する、キリストである。」

この不思議な出来事がきっかけとなり、サウロは(パウロ)となった。

彼こそ、ナザレのイエスの説かれた愛を世界中(イエスの時代の世界人口は凡そ五億人?その中で地中海沿岸から内陸、ローマにまで布教活動をした。)に広めた使徒、聖パウロである。

カラヴァッジョ「パウロの回心」(1600−01)

私は先生から出された謎解きに苦心していた。

そんなある日、何度も読んだはずの、新約聖書の使徒行伝に目が釘付けになった。

使徒行伝は→聖霊行伝と言われた霊感の書である。

その中に、キリストの聖霊の愛によらなければ全ては虚しいと、パウロの体験的告白があった。

聖霊とは→「父・み子・み霊」の三位一体をさす。

以前「義人ヨブ記」に記述したが、唯一の神が三つの性格をもつ?不思議さに驚いたが、

続きます。

愛の樹オショチ†

追伸:

連日厳しい残暑が続きます。私事ですが今まで経験したことがない厳しい夏になりました。

暑さのせいか?

今ひとつ体力回復が遅れ気味です。

皆様の祈りに支えられ今日も1日生きられました。

私事の拙い証ですが、読んで頂けたら幸いです。

ご自愛くださいますように。

感謝を込めて。

愛川英雄

愛の樹オショチ†

2012-08-19

今週の聖句 8月19日~25日

詩篇62篇
聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌

わが魂はもだしてただ神をまつ。
わが救は神から来る。

神こそわが岩、わが救、
わが高きやぐらである。
わたしはいたく動かされることはない。

あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。
あなたがたは皆、傾いた石がきのように、
揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。

彼らは人を尊い地位から落そうとのみはかり、
偽りを喜び、その口では祝福し、
心のうちではのろうのである。〔セラ

わが魂はもだしてただ神をまつ。
わが望みは神から来るからである。

神こそわが岩、わが救、
わが高きやぐらである。
わたしは動かされることはない。

わが救とわが誉とは神にある。
神はわが力の岩、わが避け所である。

民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。
そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。〔セラ

低い人はむなしく、高い人は偽りである。
彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。

あなたがたは、しえたげにたよってはならない。
かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。
富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。

神はひとたび言われた、
わたしはふたたびこれを聞いた、
力は神に属することを。

主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。
あなたは人おのおののわざにしたがって
報いられるからである。

2012-08-18

イエスとの出合い(6)ー天路歴程・地路歴程7

【夜空の星になる】

人間は死んだらいったいどうなるのか?

私は小学生のころから命と死に興味があった。

私の無意識の信仰の、原点かもしれない?と最近感じる。

昔は、今と違って家族と言えば、祖父母、両親、兄弟姉妹たちに囲まれて大家族で生活していた。

死は親類縁者を含めて、周りに自然な形で存在した。

昨日まで、元気だった従兄弟が川で水死したり、家の敷地に取り込んだ幅1.2㍍の水路に設置した動力用水車に巻き込まれて幼い従弟が全身傷だらけで亡くなったり。

ある日忽然と姿が消えてしまう。

なんとも言えない無常感に襲われた。

私の役目は、決まっていて、葬儀の先頭にたち、竹竿に白い紙切れを挟み白装束で歩かされた。

死んだ人間は何処へ消えたのか?歩きながら死が不思議でたまらなかった。

何処に隠れていて、また会える気がした。

「ばぁー!ここに居るよ!」それなら嬉しい!と勝手に考えた。

時々夢を見た。

空から突然黒い雲が渦巻きながら私をすっぽり包みこんでどこかへ連れ去っていく。

恐ろしさのあまり悲鳴を上げて目が覚めるとあたりは何事もなく妹たちの静かな寝息が聞こえる。

安心してまた眠りにつく。

ある日母に聞いた。

人間は死んだら何処へ行くのかと?

母は困った顔で、「良いことをしたら極楽へ、悪いことをしたら地獄へ行く。そこには、閻魔大王様がいて、恐ろしかとこじゃ!詳しいことは西光寺の和尚に聞きなさい」とはぐらかされてしまった。

私は、教会の日曜学校に行ってるクラスメイトの米田君に聞いた。彼は、「きまっちょる、天国たい!星になる人もおるばい!と」はっきり話してくれた。

それから毎晩夜空の星を眺める癖がついた。

今でも、夜空を眺めている。米田君の思いがけない贈り物である。

今の西光寺


【地獄極楽】

西光寺の和尚に聞くと、お盆になると、近くの寺で、あの世の凄い絵が見られから見てこいと言われた。

お前のような悪ガキにはピッタリ合う絵があると言われて、親友のしげちゃんを誘って恐る恐る見物に行った。

地獄絵は針の山、釜茹で、舌を抜かれる悪人たちの、おどろおどろした、恐ろしい絵ばかりが目に焼き付いて、首をすくめて逃げ出した。

私はしげちゃんに話した。

「米田君の天国を信じるばい!夜空の星が美しくてよか!」

しげちゃんも「うんうん」と、うなずいた。

【予感】

博多で洗礼を受け、しばらく経って上京した。

建築家を目指すには田舎では刺激がすくない。

建築家を目指す友人が欲しかった。

お互い競争心を掻き立てて念願を果たしたいと真剣に考えた。

何回か失敗したが念願の建築家の資格を手に入れたとき、私は予感した。

次は神様の仕事が与えられると。

続きます。

愛の樹オショチ†

2012-08-16

イエスとの出合い(5)ー天路歴程・地路歴程6

イエス・キリスト受洗の前に、洗礼者ヨハネの時代背景を少し。

【エッセネ派】

エッセネ派について少し補足したい。

エッセネ(アラム語の癒し)と言う語源から派生したといわれるエッセネ派は、エルサレム神殿を中心とした祭儀をユダヤ教の堕落とみなし自分たちだけの共同体を形成していた。

その数約4000人。

彼らは一切の財産を共有し、朝早く起きて祈り、午前中は農作業をした。

その後、白い麻布をまとい沐浴し、共同の食事をとることが大切な日課であった。

共同体に入会する新しい会員には一定の試験があり、合格した者だけ、共同体の食事に座ることが許された。

彼らは人間の行為や運命は神によって予め定められていると言う信仰を持っていたが、政治に関わることはなく、しかし70年のユダヤ大反乱の中に巻き込まれて、その後のエッセネ派について何も聞かれない。



「説教する洗礼者ヨハネ」マッティア・プレーティ(1667)


【ナザレのイエス】

ナザレの語源ははっきりしないが、ヘブル語の若枝と言う言葉に近いと言う。

ナザレからなんのよいものが出ようか?(ヨハネ1:46)

ナザレ人は蔑視され、卑しめられていた。

その中で青年イエスは父、ヨセフのもとで大工として誠実に働き、公生涯の日に備えていた。

因みに、イエスと言う名は(ヤハウェは救いなりの意味である)

他方キリストは、人名でなく今で言う、職名である。

意味は油そそがれた者と言うヘブル語、メシヤのギリシヤ訳である。

時には王、預言者、大祭司などと呼ばれ、聖別するとき、油そそがれた者とみなされた。

キリストと言う職名がイエスについて用いられ、イエス・キリストとして固有名詞として固定した。

神のみ子、イエス・キリストが神から与えられた職名(使命)のもとで、人類救済の大事業に乗り出した事実は大変興味深い。

僅か三年間の公生涯に人類救済の大事業が集約されたのだから。

人類史を開くと、ことの善悪は別にして、思いがけない小さな事件や無名の人物の出現で歴史が大きく変わり後世に多大な影響を与える。

今の、パレスチナ、イスラム圏内の深刻な争いは、イスラム教とユダヤ国家の対立を越えて複雑な様子を、ますますエスカレートし、いつ果てるともない泥沼にはまり込んでいる。

過去も現在も未来も争いばかりでは人類は自滅する。


「イエスの洗礼」マッティア・プレーティ(1680頃)


【イエスは謎の人物】

謎だらけの不思議な存在。

人類史にはじめて登場した新人類(ミュータント)ではないか?と思う。

これほどの人間に普通の人間はなれない。

特別な英才教育を受けたとか、ずば抜けた天才とも質が、次元が違う。

底知れぬ深さ、神秘的霊性、人間の力を超えた愛の奇跡、癒しの実証、聖書に記述されている奇跡は数知れぬ。

私は渇望した。

イエスの実体に触れたいと。

そくそくと、肌に触れる実感を秘密が聖書のどこかに隠されてはいないか?ヒントは何か?探した。

狭い部屋の壁にもたれていつも考えた。

【奇跡】

超自然的と思われる出来事をさす。

神はみ子イエス・キリストにより、またみずから選んだ預言者、使徒などを通じて様々な奇跡を行われた。

奇跡に接した人々は驚き、これを不思議、(出エジプト記7:9,申命記29:3,ルカ11:14,使徒3:13) などに「異常な力あるわざ、しるしと理解された。」

旧約聖書の中にも、奇跡として、エジプト脱出の時にモーセによって数多く行われたもの、また荒野の旅にあっての不思議なわざが、顕著なものであると、出エジプトの事件が、神の救いの決定的なわざであること。

神による奇跡が単に人々に見せて驚嘆させるものでなく、救いに導く手段と理解されたのである。

新約聖書において、イエスの奇跡が圧倒的に多く記されているが福音書の3分の1が奇跡物語と言われるほどである。

これらの奇跡物語は、神の国の到来の出来事として、聖書に記載されている。

決定的な奇跡が、復活である。

イエスが神のみ子として、復活した奇跡に対する科学的、合理的立場の解釈や批判は、福音書記者が奇跡物語を記載した意図からみると、的をはずれたものとなる。

記者は不可能を可能とする神の全能を信じて書いたのであり、またそれを読むものも信仰を持って受け入れたのである。

ある元、カトリック信者から質問された。

「貴男は、復活を本気に信じていますか?と。

彼は、復活がなければ信じるのですが!と話した。」

結局奇跡の事実は人間の肉的な懐疑性の殻を破らない限り永遠の謎となる。

私はイエスの生それ事実に驚嘆し圧倒される。これは私の信仰告白の原点である。

続きます。

愛の樹オショチ†

「カナの婚礼」マッティア・プレーティ(1655)

2012-08-14

蝉・せみー天路歴程・地路歴程5

「ジィージィーと/暗闇に鳴く命蝉/思いを遂げよ」
(拙句-2008/10/15)

死を覚悟して右腎う癌と胆嚢摘出の手術に臨んだ日から四年の歳月が流れた。

今年の夏は「蝉時雨-せみしぐれ」を聞かない。

何か蝉たちに異変が起きているのか?

散歩道で毎年見かける蝉の脱け殻も小ぶりで数も少ない。

異常気象のせいか?放射能のせいか?わからないが、不気味でもあり、淋しくもある。

拙句の蝉とは、私自身の擬態である。

苦しい夜、目が冴えて"命のあり方"を考えていたとき、闇の中から蝉の鳴き声が聞こえた。

あぶら蝉の鳴き声である。

茶羽、茶色の体。地味な姿に、ビーズのような黒い目が好きだ!

長く暗い地中生活からやっと地上に出て、思い切り鳴き交し、交尾をして短い蝉の生涯を閉じる。

健気にも短い日数を子孫のために使い果たし、枝から地上にポトンと落ちて蝉は死ぬ。

一見、儚い命に見えるがこれは人間的な私の見方かもしれない?

小さな命にも神のご意志が働いている。

小さな命の死に敬虔な気持ちが湧く。

先日、散歩道の途中にある、馴染みの欅の枝に数匹の蝉が鳴き声を競い合っていた。

別の枝にとまった蝉は鳴かない蝉だった。

忙しく飛び回っていた一匹がジィージィー鳴きながらどこかに飛び去ってしまった。

木の下を歩いていると、ポット小さな音がした。見ると茶羽の、あぶら蝉であった。

力尽き枝から地面に落ちたらしい。

私は蝉を手のひらにそっとのせた。

地面を見ると、小さな生き物たちがせっせと働いている。

しゃがんで見ると小さな蟻たちが蝉の死骸を運んで行くところだった。

地面から渕石を越えて、小さな蟻たちが、体の何十倍もの獲物を草むらの巣のなかに運び込んでいる。

暫く眺めていると、手のひらの蝉が右指にしがみついてきた。

細い足が指に食い込んで痛い。

小さなせみの細い足はしっかり私の指を掴んで離さない。

不思議な生命力である。

うっかり歩けない。

地面を小さな生き物たちがはい回っている。

道端の灌木の枝にとまらせようとしたが右指にしがみついてなかなか離れない。

せみの寿命は地上で10日間くらいと言われているが、このせみの命もその時がきて必死にしがみついているのかもしれないと思い可哀想な気持ちになった。

せみの細い足を折らないように気を遣いながら、やっと、木の枝ににのせた。やれやれである。

又、地面に落ちてしまうかもしれない?と思いながら、そこを離れた。

無数の命に囲まれて人間は今日も生かされている。

愛の樹オショチ†

2012-08-12

イエスとの出合い(4)ー天路歴程・地路歴程4

【求道者】

奇跡的に命拾いをした私は、三等車の硬い席から車窓を流れる景色をぼんやり眺め自問自答していた。

これから何を目標に生きたらよいのか?

さしあたり、学校に戻ることにした。

今は、思いつかないが、母の言いつけを守り、とにかく建築家になろうと考えた。

しかし、建築家になるには国家試験の難関を突破して一級建築士の資格を取得しなければならない。

頭が痛くなり、到底不可能に思えた。あまり勉強好きではない私の高望みぐらいにしか思えない。

しかし、あの飯田高原の遭難から奇跡的に援けられた約束は果たさなければならない。

命の恩人に嘘をつくことになる。

頭の中をいろいろな考えがぐるぐる回る。

窓からは容赦なく、蒸気機関車の煙突が吐き出す石炭の燃えかすが車内に飛び込んでくる。

洗面所にいき顔を洗おうとしてふと、自分の顔を鏡で眺めた。

煤だらけでまるでマメ狸に見えて笑ってしまった。

その時、ストン!と肩の力も抜けてしまった。

なるようになる!

成らなければそれで良い!

心の片隅に少し灯りが見えた。

【洗礼者は吠える】

博多の中洲の河口付近に教会が見えた。

日本福音ルーテル教会博多教会。

私は自分の意志ではじめて教会の門をくぐった。

牧師は、鉱山技師から牧師になった大男の山内六郎牧師であった。

はじめて牧師の説教を聞いて驚いた。

何に驚いたかと言えば、山内六郎牧師の説教は一人舞台の俳優のようだった。

説教台から離れて、聖壇の前を行ったり来たり、両手の拳を振り上げて、ヒグマのように吠えていた。

私は度肝を抜かれた。これがはじめて見たキリスト教の説教者の姿であった。

熱血漢の山内六郎牧師から翌年の春、復活祭に洗礼を受けた。

後年、東京大田区蒲田の教会に赴任して来られた、山内六郎牧師は白髪の穏やかな先生に変貌しておられた。

今まで、あれ程の熱のこもった説教をその後一度も聞いたことがない。いろいろな説教者にであったが、何か白けて見えた。

1947年造の日本福音ルーテル博多教会

【洗礼者ヨハネ】

紀元前二世紀から、死海沿岸の荒野に、「エッセネ派」と呼ばれるユダ教の宗団がクムランに住み始めた。

「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために大路をまっすぐにせよ」(イザヤ40:3)

クムランの遺跡から.1947年、ベドウィンの少年がクムランの洞窟から、羊皮紙に書かれた死海写本を発見して、クムランの遺跡は一躍世界的に有名になった。

クムランに住み始めた、エッセネ派の中に洗礼者ヨハネがいた。

「幼子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた」(ルカ1:80)  

これは祭司、ザカリヤの子、洗礼者ヨハネの出現である。

伝説では、ヨハネが生まれたとき、両親のザカリヤとエリサベツは、すでに高齢に達していたためヨハネは幼少のとき孤児になった。

そして、エッセネ派は男性だけの厳格な跡継ぎとしてヨハネのような孤児たちを集めて荒野で生活したといわれる(聖書辞典)。

エッセネ派の人々も、ヨハネも、この時代が終わりの時であるとみなしていた。

そしてある人々は、洗礼者ヨハネを終わりの日がくる前に遣わされた神の使い「エリヤ」と同一視していた。

【ヨハネの常食?】

ヨハネは野蜜といなごを常食としていたが野蜜とは、蜂蜜ではなく、なつめやし(タルマ) の実を指すといわれる。

なつめやしの実は一本の房に数千個の実を結び、乾燥した物は甘い果実となる。

なつめやしの実を潰して砂糖代わりに食用し、食糧不足のときはこれをもって主食を補った。

いなごは昆虫のいなごではなく、イスラエルに多く植生する、いなご豆の木を指しているといわれる。

いなご豆は放蕩息子の例え話しの中で、家畜の飼料として知られている(ルカ15:16)。 

安価なため貧しい者の食糧になった。いまでもベドウィン(遊牧民)たちは好んで食べる。

【イエスの洗礼】

イエスは洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けた。

イエスの母マリヤとヨハネの母は従姉妹であるから、人間的には血縁関係にある。

続きます。

愛の樹オショチ†

「イエスの洗礼」アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1473~75頃)

今週の聖句 8月12日~18日

詩篇61篇
聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌

神よ、わたしの叫びを聞いてください。
わたしの祈に耳を傾けてください。

わが心のくずおれるとき、
わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。
わたしを導いて
わたしの及びがたいほどの高い岩に
のぼらせてください。

あなたはわたしの避け所、
敵に対する堅固なやぐらです。

わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、
あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ

神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、
み名を恐れる者に賜わる嗣業を
わたしに与えられました。

どうか王のいのちを延ばし、
そのよわいをよろずよに至らせてください。

彼をとこしえに神の前に王たらしめ、
いつくしみとまこととに命じて
彼を守らせてください。

そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、
日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。

2012-08-09

イエスとの出合い(3)ー天路歴程・地路歴程3

【阿蘇外輪山】

敗戦後の日本。

先の見えないどさくさと、混沌の中で私は青春期にさしかかっていた。

広島(1945/8/6)。

長崎(8/9)の原爆の悲惨な出来事は私にも無縁ではなかった。

私は生きることにもがいていた。

何かぽっかり心に穴が開いてしまった。

埋めようの無い大きな穴が。

虚無感に襲われていた。

多情多感な年頃で、国中が、何もかも嘘と、疑問だらけで息苦し毎日だった。

戦争たけなわの頃、軍事国家の喧伝は、神国日本は、必ず勝つ!

あの蒙古襲来の元冠(げんこう)の国難に神風が吹いて蒙古軍は壊滅した。

従って、神国日本は不滅であると、教師に教え込まれていた。

昨日まで、鬼畜米英と戦い、もし負けたら日本人は全員殺される!覚悟をしなさいと、言われたが正直、ぴんと来なかった。

まもなく教科書は真っ黒な墨でアメリカ人に都合の悪い箇所は塗り潰し、意味不明の教科書に化けていた。

手のひらを返した、あからさまな大人たちの醜態に私は人間不信に落ち込んでしまった。

最悪状態に落ち込んでいた時、母に勧められて、人々のお役に立つから建築家になれと言われて日田を離れて福岡(博多)で、一人暮らしをはじめた。

母の言いつけを守り、それなりに、専門学校で勉強に熱中していたが、心は満たされなかった。

そんなある日突然、阿蘇高原に行けと誰かが囁いた。

福岡市に下宿していたが、学校には行かず、肩から、白いカバンをぶら下げて、私は久大本線に乗っていた。

ふるさと日田駅を通過する時、ちらっと!母の姿を思い浮かべて、キューンと胸が痛んだが、黙って見慣れたふるさと日田を眺めていた。

18歳の秋であった。

学生服に学帽をかぶり、腰にタオルをぶら下げて高下駄を履いていた。


由布院駅の手前の駅で下車して、阿蘇高原の一角、飯田(はんだ)高原に向かって、山道を登りはじめた。

高下駄で険しい山道を歩くのは難儀であったが、囁く声に憑かれたように、"はあーはーあ"喘ぎながら歩き続けた。

途中、一軒家のひなびた温泉宿を見つけて、立ち寄った。

宿の人から「あんた学生さんじやろ?そげん格好で、この時間にどこにいくと?と聞かれた。」

「飯田高原に行きます」

「今からじゃ、ガスが立ち込めて危険じゃ!火山ガスを吸うと危険じゃからやめんね!」

宿の人は何か異様な雰囲気の若者を心底心配してくれているのがよくわかった。

しかし私の決心は変わらなかった。

宿の人も諦め顔で、「なら、温泉に浸かって、気をつけていきなさい」と、すすめてくれた。

私は、はい!と答え素直に温泉に浸かった。

まだその時、ガスの本当の恐ろしさに気付いていなかった。

【カラス?峠】


飯田高原の途中に火山ガスが噴出する危険な場所があるから変な臭いがしたら、タオルで鼻と口を塞いで、
直ぐ下山してこの宿に来るように念を押された。

その場所は、すすきのたくさん生えているところじや!一目見たら直ぐわかるばい。

間違ってすすきの生えているところに入ったら、命を落とすよ!

(今、生きて、イエスのしもべとなり神と人々に仕える身を思うと、あの日、命拾いをした不思議な運命の巡り合わせをしみじみと思いかえさずにはいられない。)

「人生には不思議な巡り合わせがあり、それは予期せぬ、ほんのちょっとしたきっかけが動機となる。あれから60年近い歳月が流れた。

私も来春、80歳になるがまだまだ青二才に過ぎない。

歳月は"まさに光陰矢の如し"。

感無量にたえない日々である。」

思い返すと、あの、ひなびた一軒家の温泉宿。

数時間後、宿の主人の機転と優しさに私は命拾いをした。

【遭難者】

ジョン・バニヤンの話しの中に出てくる銀の谷の欲深な誘惑者に、誘惑された旅人のように、私も愚かにも自ら危険にはまり込んでしまった。

山道の途中から全山が白い靄にすっぽり包まれてしまった。

白いすすきの原付近に迷い込んでしまったらしい?

宿の主人から聞いた、ツーンと鼻をつんざくような異臭が辺りにたちこめていた。

私はとつさにタオルを鼻に当てて恐怖心に駆り立てられた。

恐怖心と闘いながら安全な場所を必死に探した。

刺激臭の強いガスは硫化水素だと後で知らされた。

だんだん気が遠くなっていった。

なんとか生きて帰りたい!初めて真剣に行きたい!と願った。

何かにつまずいて、私はばったり倒れた。

微かに冷たい空気が指先に感じられたが、後は、プッツンと意識が途切れてしまった。

闇の中をあてどなく彷徨い(さまよい)歩く、亡霊のように不安と恐怖におののく私がそこにいる。

しばらくすると、何か周りに人の気配を感じた。

誰かが私の身体を揺すり、ほっぺたを叩いている。

暗がりの中にぼんやり灯りが見えた。

少しずつ意識が戻ってきた。

下から見上げると三人の若い男たちが私を取り囲んでいた。

「どうやら、こん若いもんは助かったぞ!それにしてもむちゃくちゃじやなあー!よほど運の強か、男ばい!自殺しにきたんじゃろうか?」

男たちの会話を聞きながら、私はやっと立ち上がった。

あんたは学生さんか?、下の温泉宿に立ち寄ったね? 宿の主人から、自殺しそうな若い学生さんが、山に登っていったから助けてくれと報せがあったから直ぐ仲間を集めて、あんたの後を追い掛けたが、白い靄であんたを見つけられなかった。

とにかく生きて援けられて良かった、良かった!と、命の恩人、山男たちは嬉しそうに互いに笑顔で話し合っていた。

あんたが今どんな場所にいるか?用心して下を見てご覧。と、言われて、恐る恐る覗くと、後少しで、底知れぬ断崖絶壁がそそり立っていた。

ぞっとして鳥肌が立った。

私は恩人たちに深々と頭を下げて、ご心配をお掛けしてスミマセンと謝った。

それから、ここに自殺しにきたわけではなく、生きる道を探しにきました。と、ありのままを伝えた。

また、温泉宿の主人にこのご恩は決して忘れません。

必ず何か役立つ人間になってご恩がえしをします!と、恩人の山男たちに伝言を伝えてくださいと頼んだ。

彼らの案内で飯田高原の阿蘇高原側に近い温泉宿に一晩泊まり、私は別の山道を下り、別の駅から再び、蒸気機関車の三等車に乗り、機関車の煙突から出る石炭の煤で顔を真っ黒にしながら宇佐郡の父親の姉の住む家に向かった。

私の魂の遍歴、天路歴程・地路歴程の始まりであった。

続きます。

愛の樹オショチ†

2012-08-07

義人ヨブ記(job)33

さてヨブよ、わたしの言葉を聞き
わたしの言うことによく耳を傾けよ。

見よ、わたしは口を開き
舌は口の中で動き始める。

わたしの言葉はわたしの心を率直に表し
唇は知っていることをはっきりと語る。

神の霊がわたしを造り
全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。

答えられるなら、答えてみよ。
備えをして、わたしの前に立て。

神の前では、わたしもあなたと同じように
土から取られたひとかけらのものにすぎない。

見よ、わたしには脅かすような威力はない。
あなたを押さえつけようとしているのではない。

あなたが話すのはわたしの耳に入り
声も言葉もわたしは聞いた。

「わたしは潔白で、罪を犯していない。
わたしは清く、とがめられる理由はない。

それでも神はわたしに対する不満を見いだし
わたしを敵視される。

わたしに足枷をはめ
行く道を見張っておられる。」

ここにあなたの過ちがある、と言おう。
神は人間よりも強くいます。

なぜ、あなたは神と争おうとするのか。
神はそのなさることを
 いちいち説明されない。

神は一つのことによって語られ
また、二つのことによって語られるが
人はそれに気がつかない。

人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると
夢の中で、夜の幻の中で

神は人の耳を開き
懲らしめの言葉を封じ込められる。

人が行いを改め、誇りを抑え

こうして、その魂が滅亡を免れ
命が死の川を渡らずに済むようにされる。

苦痛に責められて横たわる人があるとする。
骨のうずきは絶えることなく

命はパンをいとい
魂は好みの食べ物をすらいとう。

肉は消耗して見えなくなり

見えなかった骨は姿を現し

魂は滅亡に
命はそれを奪うものに近づいてゆく。

千人に一人でもこの人のために執り成し

その正しさを示すために
 遣わされる御使いがあり

彼を憐れんで
「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。
代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら

彼の肉は新しくされて
 若者よりも健やかになり

再び若いときのようになるであろう。

彼は神に祈って受け入れられ
歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ

再び神はこの人を正しいと認められるであろう。

彼は人々の前でたたえて歌うであろう。

「わたしは罪を犯し
正しいことを曲げた。
それはわたしのなすべきことではなかった。

しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ」と。

まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。

その魂を滅亡から呼び戻し

命の光に輝かせてくださる。


ヨブよ、耳を傾けて
わたしの言うことを聞け。

沈黙せよ、わたしに語らせよ。
わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。

正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。
言うことがなければ、耳を傾けよ。

沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。


(ヨブ記 第33章)

続きます。

愛の樹オショチ†

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「妻に嘲られるヨブ」 1630前半

イエスとの出合い(2)ー天路歴程・地路歴程2

【イエスのふるさと】

いエスはおよそ紀元四年ごろユダヤのベツレヘムに誕生し、成人した地は、ガリラヤである。

ガリラヤ湖は新約時代はテベレヤの海、ゲネサレ湖などと呼ばれていた。

ガリラヤについて少し説明を加えたい。

地名と人名が結び付き、当時の人の呼び名に深くかかわり合いを持つからである。

ユダヤ人の厳格な宗教、生活習慣を垣間見ることでいろいろ参考になる。

例えば、イエスはガリラヤのナザレの出身から「ナザレのイエスと呼ばれ。大工、ヨセフの子とも呼ばれた。

ガリラヤ訛りがある。弟子のペテロたちが、イエスを発音すると、"イエーシュー"となる。」

例えば、レビ記22:2の「わたしの聖なる名を汚さないようにさせなさい」という箇所をガリラヤ人が読むと「わたしの聖なる名をほめ賛えないようにさせなさい」と聞こえ、全く逆の意味になってしまう。

【パレスチナの殉難】

ガリラヤ人がシナゴーク(会堂)で聖歌隊の先唱者になったり、皆の前で聖書を朗読することを禁止する地方もあった。

イエスが捕らえられた後、こっそりついて行ったペテロが、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」(マタイ26:73)と見破られたのも、彼のガリラヤ訛りのせいであろう。

イエスの正確なヘブライ名は「イェシュア」であったが、「ヨシュア」とも呼ばれ特別に珍しい名ではなかったようである。

これは彼らガリラヤ人が喉音AとHの発音が正確にできないためだった言われている。

イエスは正確なアラム語を使っていた。

余談だが、あの七つ悪霊に悩まされた女性→マグダラのマリヤもイエスの弟子の一人となった。。

彼女の人物像があれこれ興味本位に取り上げられているが、イエスの使命、父なる神の子メシヤ→救世主の、使命にに何ら支障はない。

レオナルド・ダヴインチの絵画、最後の晩餐に詮索好きな人たちのMの謎解きが盛んに言われているが四千年の長い膨大な霊感の書から神秘性、真理を解きあかす力を、人間はまだ獲得してはいないと思う!

イエスの公生涯に、人類救済のすべてが托されていた。

イエスを見よである!この人を見よ!の一言に尽きる。

例え天才画家でも芸術家でも、創造主の神秘性の謎解き、救世主の真の理解は不可能だと思う。

人間の知的能力、表現方法では限界があると思う。

聖書における神は他の諸宗教の神々と著しく異なる特徴は?

生ける神であること!(詩編、18;46、42;2)明確に記述されている。

神は全知全能である。宇宙の創造主である。

【ナザレ人】

さて話しをもとに戻そう。

イエスが30歳まで、大工のヨセフのもとで生活された、ガリラヤのナザレは、標高350㍍の丘陵にあって、南はエズレル平原を見下ろし、東はタボル山やギレアデの山肌、北ははるかにヘルモン山の連峰が見え、西にはカルメル山が見える景勝地である。

ガリラヤ湖は、地中海より約212㍍低く、南北約20㌔幅広いところで、西12㌔、水深は最大228㍍、面積は160平方㌔メートルある。

博多湾くらいの規模と思うとわかりやすい。

西岸はならだかな平地でテベリヤ、ベッサイダ、カペナウム、マグダラ、コラジンなど、盛んな村や町であったが、東岸は断崖が岸に迫っており、西岸のような繁栄はなかった。(聖書辞典)

シモンと呼ばれた漁師ペテロ、アンデレ兄弟。ヨハネ。彼らは素朴で勇敢な一面と、激しい気性の持ち主だった。

後に、イエスを捕らえにきた兵士の耳を剣で切り落としたのは、ペテロである。

イエスは先ずそのペテロと弟のアンデレに声を掛けている。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる!」 (ルカ5:1-11,マタイ4:18-22,マルコ1:16-20)

イエスの12弟子(使徒)のうち11人までがガリラヤ北部の出身者、貧しい漁師などである。

残り一人が南部出身者の、イスカリオテのユダである。

無学で素朴なペテロたちは、ガリラヤ人は地位や富より名誉を重んじ、義を大切にした。

対象的に、イスカリオテのユダは、理知的な野心家で計算高い男であったが、イエスは、敢えて弟子に加えた。

イスカリオテのユダは革命を夢見ていた。

ユダヤ最後の王朝、ハスモン家の祭司マタティアは、ギリシャの(ヘレニズム)文明の支配下に入ることを拒否し当時の軍事大国、ギリシャに敢然と立ち向かった。歴史に残る人類初の殉教の戦争でいわゆるマカベア戦争である。(紀元前175-134)

イエス出現の約150年前の出来ごとであった。

一時、ユダヤはハスモン家が政治的には独立を勝ち取ったが、それも束の間、ローマ帝国に敗れ、紀元前63年にパレスチナはローマ帝国の属領となってしまう。

【ユダヤのヘロデ大王の暴政】

紀元前37~4年は、外交手腕を巧みに働かせ、ローマ帝国に取り入り、イスラエルの支配権を得た。ヘロデ大王は恐怖政治を徹底した。

ヘロデ大王による残虐行為は、後に、キリスト教徒の弾圧に繋がり、ローマの闘技場で生きた人間をライオンに食い殺させるなど、信じがたい虐殺を行った。

イエスが現れる以前の時代背景の説明なしに、メシヤと呼ばれた、イエスの誕生がどれほど人々が待ち焦がれたかと思う。

【イエスの弟子たち】

弟子に取り立てられながら革命を夢見るユダには、イエスの真の目的が理解できなかった。

イスカリオテのユダはイエスに革命家を期待した。彼なりに、イスラエルの独立を渇望したはずである。

自尊心の強い、しかし自分勝手に考えて、イエスを革命家に仕立て、ユダヤ最後の王朝ハスモン家の夢の再来を、イスカリオテのユダが持ったとしても驚くことはない。

しかし、イエスの傍に仕えているうちに、ユダは、イエスに絶望した。

自分勝手な理想とかけ離れた、目の前のメシヤ・イエス・キリストは、革命家に非ずと考えて、パリサイ派の大祭司密告し、イエスを裏切った。彼は僅か銀貨20枚で、イエスを大祭司に売った。

場所はゲッセマネのオリーブの樹の下である!

後にイスカリオテのユダは激しく後悔して自殺する。

【少年時代のイエス】

はユダヤの律法学者たちが驚くほどの知恵と旧約聖書に通じていた。祭司、ラビたちはその不思議な力に圧倒された。

【わたしの役目】

残り時間を逆算してこれからはイエスとわたしの同行ニ人の生き方や、様々な感じ方など、織り交ぜて書き残してみたいと強く願う次第です。批判を恐れず、敢えて恣意的解釈を加えています†

続きます。

愛の樹オショチ†

追伸:
聖日礼拝の聖句、現時点では、詩篇、また、週刊の義人ヨブ記は、愛の樹ホームページにのみ掲載します。

これからは、天路歴程・地路歴程のみ、携帯メールで送信させていただきます。

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或いは削除していただきたくお願いいたします。 

以上よろしくお願いいたします。

愛の樹オショチ†

ウィリアム・ホルマン・ハント「神殿での少年イエスの発見」(1854-60)


2012-08-05

今週の聖句 8月5日~11日

詩篇60篇
聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの

神よ、あなたはわれらを捨て、
われらを打ち破られました。
あなたは憤られました。
再びわれらをかえしてください。

あなたは国を震わせ、これを裂かれました。
その破れをいやしてください。
国が揺れ動くのです。

あなたはその民に耐えがたい事をさせ、
人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。

あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと
あなたを恐れる者のために
一つの旗を立てられました。〔セラ

あなたの愛される者が助けを得るために、
右の手をもって勝利を与え、
われらに答えてください。

神はその聖所で言われた、
「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、
スコテの谷を分かち与えよう。

ギレアデはわたしのもの、
マナセもわたしのものである。
エフライムはわたしのかぶと、
ユダはわたしのつえである。

モアブはわたしの足だらい、
エドムにはわたしのくつを投げる。
ペリシテについては、かちどきをあげる」と。

だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。
だれがわたしをエドムに導くでしょうか。

神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。
神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。

われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。
人の助けはむなしいのです。
われらは神によって勇ましく働きます。
われらのあだを踏みにじる者は神だからです。

2012-08-04

イエスとの出合い(1)ー天路歴程・地路歴程1

【イエスとは何者?】 

九州、大分県、日田の山奥で生まれ、少年期を田舎で過ごした私にキリスト教は無縁の存在でしかなかった。

小学校のクラスメイトに一人だけ、日曜日になると、教会の日曜学校に行く米田君という、あまり親しくない男の子がいた。

−あん、十字の印はなんね?−と、聞くと

「イエス様のおらっしゃらるところたい!」

−イエス様って誰ね?−

「教会の先生が、イエス様は、救い主と言われるけん、神様じゃろう?」

他愛のない会話だったが、少年の私を惹き付ける不思議な響きがあった。

封建的な風土であるが、田舎暮らしは素朴そのもの、緑豊かな山々に囲まれた日田盆地は夏は暑く冬は寒かった。雪も、どっさり降った。

街は日田盆地を両側から挟むように、三隈川と花月川の清流が流れていた。

昔は、徳川幕府直轄の天領で、水郷日田の天然の恵みは幕府の貴重な資金源でもあったと言う。

更に日本三大杉の美林の一つに数えられ、木目の美しさは珍重されさまざまな木工芸品を産み出した。

三隈川から川上にさかのぼると、九州でも最高の品質を誇る、鯛生金山があった。

現在は過去の歴史に埋もれてしまったが。

産出する金。

質の高い漆工芸品、豊穣な土地。

温和な人々。

日田は美人が多いと言われる土地柄でもある。

美人が多い原因の一つに清流から、立ち上る、朝靄があげられる。

山々に囲まれた日田盆地は、特に、昼間と夜の温度差が、朝靄を発生させそのせいか?

肌理(きめ)の細かい色白の肌を作ると母に聞かされた。

徳川幕府の財源確保に欠かせない土地でもあった。

高名な、漢学者・広瀬淡窓を慕う弟子たちが全国から集まった。

四国から中津にきた福沢諭吉とは、全く質の異なる純粋な学者であったと言う。

小学校のクラスメイトに広瀬淡窓のひ孫がいて、私と机が隣り合わせであった。

勉強嫌いの私にはどうにも手の届かない秀才で、この違いは血統かもしれないと思っていた。

私の少年期は、日本が戦争を拡大し、太平洋戦争の真っ只中にありながら、しかし何処かのんびりした土地柄に守られていたように記憶している。

前置きが長くなったが、イエスのふるさとユダヤのパレスチナ北部の山岳地帯にあるガリラヤ湖を日田盆地と似ていると感じたからである。

ガリラヤの豊かな水源地は万年雪をいただくヘルモン山である。

ガリラヤと言う名は旧約聖書に数回しか出てこないが、「ゼブルンの地、ナフタリ地」などと呼ばれている。

ガリラヤ湖を中心にその周りに町々が並んでいる。その地形からガリラヤと言う地名がついた。
ガリラヤ→ノコギリの歯のように凸凹した地形が「輪・周辺」と言う地名にぴったり一致したのかもしれない?「聖書辞典一部引用」。

続きます。

愛の樹オショチ†
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「イエスの受洗」(1440頃)


2012-08-01

今後のブログは

オショチ、はマンネリ化を避けて自由自在に執筆します。

主体は【天路歴程・地路歴程】の再開です†

神学時代に心に残った言葉を当時の教材から得て、実感の持てるイエス像をリアルに表現できたら今現在のレイパスタの聖日礼拝†の方向性も間違っていなかった証になります†

【詩篇】【義人ヨブ記】と、【天路歴程・地路歴程】に絞り込んで行きます。

これがわたしの最後の仕事になると思います。

後は御心のままにです†

体の筋肉も手足も固くなりました。

わたしの視力低下、歯の痛みなどは軽い失陥ですから何とかなりますが?

悪性リンパ腫の影響は無視できません!

昔独りで神を求めた、あの道に辿り着くのがわたしの最後の仕事になります†原点復帰です!

少し、浮き世を歩き回り過ぎました!

イエスの聖霊に密着したいのです†

注)イエスの証しの手記は世界中何処にでもゴロゴロありますから新しくイエスのご生涯を記述する。

難儀な仕事を仰せ付けられました†

父なるみ神よ!イエスよ!聖霊よ!無知なるシモベを真理の世界に導いください†

アーメン・ハレルヤ†

神のシモベ 
愛の樹オショチ†

2012/8/1(水)朝