2013-07-23

心の旅路

その私が何の因果か「聖職者」となって、この北海道の地に、特別誰から頼まれたわけでもないのに、痛んだ体を運び、アイと二人で立っている。

歓迎するかのように爽やかな風が吹き抜ける。

家を出る時、心配してくれる皆に笑顔を見せつつも、正直言って自信もなく悲壮感があった。再び生きて帰れるだろうか。

それまで縁もゆかりもなかったフィリピンの小さなハンセン病の島、クリオン島に住む恵まない家族と、その子供たちの教育支援活動を立ち上げた。1988年、近くの病院の医師からは肝硬変の末期で、余命三ヶ月の宣告を受けていた。
私と弟子一人。、

名称は「フィリピン・クリオン島を助ける愛の会。略称、アガペ教育プログラム」

立ち上げた責任に背中を押されてここにいる。

子供時代周りの影響からだと思うが、訳もわからず、私はキリスト教を嫌った。よく知らなかったが、唯遠くから日曜学校にゆく友達を好奇心のまなこで眺めていた。

「鋸屋の目立の子供(クラスメート)がヤソ教の所へ行くそうな」と母に聞いた事があった。私も鋸屋の友達がもらってくる、綺麗なカードが欲しかったがあきらめた。

しかし、あのチャペルの鐘の音に不思議に胸がときめいた。後年、長崎に伝道に行った時、日曜日の朝、長崎市内のあちこちから聞こえてきた聖日礼拝のアンジェラスの鐘の音に感動した。


神に仕える、しもべと変えられた我が身を思い、母の苦労にひたすら、頭(こうべ)をたれ、感謝の祈りを捧げたことであった……。

今にして思えば、しばらくは西光寺の老和尚の言う、又、母の願った心は育たなかったかもしれない。しかし目に見えぬ何かとてつもなく大きな不思議なものには心が強くひかれていた。

長じて、親しい友人から神学校へ行かないか、と熱心に誘われたが、自分には不向きだと考えて辞退した。宗教はどうも苦手だったし、それに私のガラに似合わないと思った。

それでも神の干渉の手はのびてきた。それも無視し続けた。逃げられるところまで逃げて行けば、そのうち神様の方から諦めて下さるに違いないと、たかをくくり勝手に一人決めこんでいた。

ところがどっこい、そうはいかなくなった。すべて私の進む道に障害物が置かれ、退路が次々に断たれていった。残された道は一つしかなかった。一番嫌った伝道者(牧師)への道だった。召命を受けた後、私は夜、神学を必死に学んだ。夜遅くまで。

しかし、私は心底、神を恨んだ。「なぜですか!」。神に向かって抗議もした。恵まれていた建築家の仕事も財産も信用も何もかも奪われ(一応、自分の意思で捨てたことになっている)、気がついたら、義人ヨブ記のヨブのように体もメチャメチャになり、素裸にされていた。

そこから実に信じ難い、ドラマが展開してゆく。あのロマ書の「神は愛する者を不従順の中に閉じこめたのである」私は神に手足を縛られ、パウロのように見えない不自由順の囲いに閉じ込められたのである。

(つづく)

「心の旅路」より抜粋

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