時代背景
イエスの時代にも偽者達は威張って威勢を張っていました。本物ぶっていました。イエスの処刑後、イエスの霊光に射たれ、弟子にされた、使徒パウロも、イエスの直弟子や信者から疑われ、ずいぶん苦労したと嘆いています。
偽者達は、自己の利益を目的とし、使徒と自称し、権威を利用する邪悪な者達がはびこりました。パウロの場合も例外ではありませんでした。使徒権への誤解を受けて大変な苦労を味わいます。その結果、本物と偽者の本質的な相違点を研究し彼の宣教活動と平行して訴え続けました。並々ならぬ苦労がありました。以下のコリントの人々に記述されています。
イエスの時代から2100年経ちましたが本質的に、人間の成長は残念ながら認められません!私は人類の精神的成長を諦めてはいません。今が偽物の跋扈する時代でも!
物語りです。
【使徒としてのパウロの労苦】
だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、"偽の兄弟"たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
(コリントの信徒への手紙二 11章16-33節)
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