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2009-12-05

死への覚悟から〜OMさんからのメール(つづき)

おしょち様、メールありがとうございます。
聖日の御礼拝の許可良かったです。
でも、感染症には本当にお気をつけてくださいませ。

私のために祈ってくださいまして、ありがとうございます。
でも、そのためにおしょち様の具合が悪くなったらいけないです。
お送りいただいたキリスト様の彫像を見て、この苦悩は他人の重荷を代わりに背負ったためのものだ。
おしょち様を苦しめてはならないと思いました。

私は心が弱いので自分のなすべきことがわかっていても実践できません。
おしょち様や愛の会の方々の愛は本物で厳しさを感じます。
私の今の課題は、年老いた親のためになにをするかです。
思っているだけではいけないです。

寒いので暖かくお休みくださいませ
OM


ご両親のこと、よくわかります。
教会の皆も、オショチを含めてそれぞれ、共通問題を抱えていますから。
一人で抱え込むのは、厳しく、難しいことですが、せめて心の支えになれば、お互いに助けあえたなら?
何か少しでも役立てばと考え、病をきっかけにブログを立ち上げました。

病気、老い、等、やがて訪れる死も、避けて通れない道ですね。
仏教徒の母からは、お釈迦様の説かれた、老、病、死に直面したとき、弱い、人間救済の教えに、慈悲の眼差し、励まし、生きていく上での知恵を学びました。

わたしたち、教会の中に横たわる問題点は、人間共通の真剣な問題、課題です。
が深刻ではないです。
キリスト様のお示しになられた天国を魂の帰り行くふるさと信じていますから。

しかし、目の前の老いた親の介護を皆が同じように出来るとは限らないので、とにかく精神的な孤立、負担が少しでも減らせたらと願いながら毎日を迎えています。

生き物は、死と向き合う生を生きなければならない宿命を背負っていますね。
オショチも死の陰の谷を何度か越えて来ましたが、未だにうろうろしています。
死への覚悟が、生の目覚めになりましたが!逆説的ですが?

弱いことはオショチ†の生きる力になったのです。
おかしな体験です。
まだまだこれからいろいろな試練に遭うでしょうが?

夜更けのメールごめんなさい。
おやすみなさい
12月5日
オショチ†

2009-08-02

天路歴程(25)老いと闘病



また入院しました。

4月半ば、右腎臓と胆嚢の摘出手術を受けて、回復期に入ってきた矢先に急性腎不全に似た症状が出ました。

明日から最後の治療、悪性リンパ腫の抗がん剤治療も始まります。

どうやら真犯人は悪性リンパ腫らしく、
その影響でやられた右腎臓の手術をしました。

4月半ばの事でした。

あの日から3ヶ月あまりで、また緊急入院です。

一見順調に体力回復して来たかに感じていましたが?
油断した隙を病魔に付け込まれたのか?と。

人間は、長い間に様々な体験をするものですね!

今、
入院先の病室の夜景を眺めながら生き物の生死について深く考えさせられています。

いろいろな出来事が瞼に浮かびます。

偶然ですが、約7年前にも当時、東京慈恵医大の消化器・
肝臓内科の戸田剛太郎教授の外来診察を受けた折り、肝臓の数値が異常に高く、即、入院となりました。

入った病室が同室でした。

15階の眼下に芝の増上寺が見えます。

また、東京タワーの夜景は幻想的な美しさです。

夜景を一人静かに眺めながら考えています。

「老いは自然の成り行き」

さんざん使わせて頂いた体が傷むのも仕方がないか、と!

これは単なる諦めではなく、これから先、
ここを人生第三のスタートラインと考えての思考です。

新たな人生計画です。

牧師と建築家を同時にこなしてきた、
私の人生計画はまだ未完成ですから!

未完成の仕事を完成させたい意欲が沸き上がります。

大概の試練には耐えられそうな気がします。

ごく当たり前のこととして、我が人生の過ぎ行く事態を、その人生計画の進行状況を、眺めている自分に気付きました。

精神的老化はしたくないですね!肉体的老化は受け入れても、
心の張りは失いたくないのが本音です。

さらに突っ込んだ話ですが!
体から霊魂が離脱する瞬間迄はしっかり生きたいと神にお願いをしています。

そんな、こんなの中で自然に、疑問も生じて来ました。

何故?7年の間に、肝臓、腎臓、
頸椎のおぺを含めて6回の入退院を繰り返したのか?

さすがに考え込んでしまいましたが、
神がお与えくださった試練だと受けとめると合点がいきます。

密かに何処かで病魔と闘い、孤独の中に身を置かれているあなた!
悩み苦しむ未知の兄弟姉の痛み苦しみを共有することの意味と価値を考えました!

さて昨夕の泌尿器科の緊急手術ですが!

(残った左腎臓の水腎症背後性腎不全)のためのステント挿入は泌尿器科の木村高弘先生の判断で麻酔薬無し、また、
術後も、座薬なしの、前提で手術台に身を横たえました。

正直な話ですが手術台に磔にされました。

左の尿管は既に一年半前に尿管狭窄症で手術をしています。

もし、
ステント挿入が成功しない場合の次善策は直に腎臓に穴を開けて管を挿入し、「命を救う!」先生のこの一言が心に響きました。

その一言で私の覚悟が出来ました。

ゴルゴタの磔刑のキリストの痛み、激痛に想いを馳せました。

短くて、とても長い30分間が過ぎました。
ステント挿入が成功したのでした。

手術室には独特な静謐が感じられます。
命のやりとりが現実に行われる聖域です。

この体験記がブログとなりあなたのお役に立てたらと祈ります。

消灯時間が過ぎました。

神の平安を祈りつつ!

アーメン・ハレルヤ†

2009-06-11

究極は魂の救済

いろいろ人間を生きて見ると、最後は人間の死にたどり着きます。

如何に優れた人物でも、死と時間は人間に平等にあたえられますから、避けては通れません。

怖いからと言って、目をつぶっても、容赦なく時間は進み、死が訪れます

「若い日にあなたのつくり主を覚えよ」です。

御子キリストの出現は、驚天動地の出来事です。

他人の罪を被り、他人の悪の為に†字架にはりつけになる、考えられない出来事でした。

イエス・キリストの昇天、復活後、キリスト教徒に対する猛烈な迫害、大量殺戮が起きますが、彼らは屈しなかったばかりか、勇敢に死に就きました。

2009-05-23

死生一如

イエス様が弟子や民衆に説かれた死生観は、死の為に全てが消え去り、無と化すと言う考え方を根底から否定し、死を生に覆すものでした!

死を突き破る考え方に、当時の人々の驚き、戸惑いが即々と身に伝わります!
死人が生き返る?常識では有り得ないことです。

現に、ユダヤのベタニヤ村で死んだ、ハンセン病のラザロは墓の中で死臭を放っていましたから。

聖書の告げる記述には、白い布に包まれたラザロがイエス様の一言で蘇ったと書かれています。

奇跡は否定出来ません。

しかし我々の日常生活で、こんな話は有り得ないと考えるのが妥当でしょう。
ラザロの蘇生

生と死について

これから、少しずつ、わたしなりの体験を交えて人間に宿る霊魂と生死について書いて見たいと思います。

既に宗教関係書等に「人間の生死に関わる文献」が多数ありますから、このブログには、私的体験から感得した「オショチの死生観」と、言う形で書きます。

まず、人間は死んだら何処に行くのか?体が無くなれば、一切が“無”ではないのか?
と、よく質問されます!

命あっての物種、死んだら、何も残らない、唯白骨だけ?あなたはそれの答えを持っているのか?
持っているなら分かりやすく説明してくれ!
と、何度か質問されました。

人の生と死は人間の最大事だと考えます!

特に死は恐ろしいもの、悲しいもの、忌まわしいことだと感じる向きもありますが、わたしは少し違います!

死は生きている限り避けて通れない現実ですから、むしろ積極的に死を捉えたいと考えました。

神学校で学び、真剣に死を見つめたとき学んだ聖書の中からいくつかの驚くべき言葉が見付かりました。
わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる死者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。
ヨハネ伝11章25-26

2009-05-09

生きることとは


体を休める機会を与えられ、過去過ぎ越して来た、あれこれが鮮やかに思い出されました。

昔 母から聞かされました。

人間死ぬとき走馬灯を見ると!

それまでの自分の生き様がすべて現れる。

地獄を見るも極楽を見るのも自分次第。

だからそのことを良く考えて自分を生きなさい!

死の川は誰でも一人で渡るのだからね。

かあちゃんはお前と一緒には行けないよ!

ずしん!と、胸の奥底に響く言葉でした。

仏教徒の母らしい死の受けとめかたでした。

聞きながら、母との別離、手の届かぬ遥か彼方に消えて行く母?

聞きたくない言葉でした。