2012-03-16

義人ヨブ記(job)21

 レンブラント「モーセと十戒の石版」(1659)


今朝方、地震が起きてハットして目が覚めたとき!一瞬脳裏に浮かんだ場面とある言葉が一致しました。


度重なる地震に、モーセの十戒の場面が二重写しとなり、リアルタイムで眼前に展開したのです。

モーセがシナイ山を下り三日目の朝になると雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み…シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上ぼり、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
出エジプト記19:16−19
幻を視たのかもしれませんが、急いで、メモしました。

至福直感

曖昧な、コノ言葉は何世紀にもわたり神学者たちが神に直に触れ、人間の経験するうちで最高の喜び、霊的エクスタシーを表現する手段に用いてきた言葉のようです。

正確なことは、わたしにもわかりませんが。

彼らの神学的説明によれば、接神の体験で深い心の満足→ときめきが得られると言う意味合いがあるように感じますが?果たしてそうでしょうか?

疑問が残ります。

新約聖書の中に、ダマスコ途上のパウロは、クリスチャン迫害の途上でキリストの霊光に射たれ三日間全く目が見えなくなったと記述されています。

神の力は人間には想像も出来ない破壊力も含まれているのです。

わたしたちは神の払われた犠牲の恩恵のみを当てにしますが、御子・イエス・キリストの人間の罪の贖い抜きに毎日を過ごす訳には行きません。

パウロは、キリストのみ声は聴きましたが、キリストを直視してはいないのです。霊光に射たれ一時的に失明したのです。

あのモーセもシナイ山で神から「モーセの十戒」を授かりましたが、燃える芝に遮られ神に近づくことは出来なかったと言われています。

神のご臨在に触れて、ただ畏れおののき地にひれ伏したとあります。

モーセにかろうじてできたことは、神の御名を尋ねることが精一杯でした。

『わたしの名はありてあるもの』

神は人間の肉眼では見えません。

『神は永遠の霊の輝きですから』

モーセが民の言葉を取り次ぐと、主はモーセに言われました。

見よ、わたしは濃い雲(霊的密雲)の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。
彼も神の声は聴きましたが、不思議な光りの中で、畏れおののいていたのです。

人間は直に神の姿に触れること、(直視)は不可能です。

神は計り知れない存在です。

これは、例えですが、地球上の生命を育む太陽に近づくことは不可能です。

一瞬にして蒸発してしまいます。

神に近づく唯一の手がかりは御子・イエス・キリストを通してのみ可能です。

義人ヨブの記述に示された神の仕打ちは、人間には理解を超えた物語です。

彼は逆境の最中、神の姿を本当に『至福直感』していたのではと深く想わされた次第です。

【ヨブ記21】

ヨブは答えた。
どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。
聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。

我慢して、わたしに話をさせてくれ。
わたしが話してから、嘲笑うがいい。

わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。
なぜ、我慢しなければならないのか。

わたしに顔を向けてくれ。
そして驚き、口に手を当てるがよい。

わたし自身、これを思うと慄然とし
身震いが止まらない。

なぜ、神に逆らう者が生き永らえ
年を重ねてなお、力を増し加えるのか。

子孫は彼らを囲んで確かに続き
その末を目の前に見ることができる。

その家は平和で、何の恐れもなく
神の鞭が彼らに下ることはない。

彼らの雄牛は常に子をはらませ
雌牛は子を産んで、死なせることはない。

彼らは羊の群れのように子供を送り出し

その子らは踊り跳ね
太鼓や竪琴に合わせて歌い

笛を吹いて楽しむ。

彼らは幸せに人生を送り
安らかに陰府に赴く。

彼らは神に向かって言う。

「ほうっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。

なぜ、全能者に仕えなければならないのか。
神に祈って何になるのか。」

だが、彼らは財産を手にしているではないか。
神に逆らう者の考えはわたしから遠い。


神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い
神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。

藁のように風に吹き散らされ
もみ殻のように
 突風に吹き飛ばされたことがあろうか。

神は彼への罰を
 その子らの代にまで延ばしておかれるのか。

彼自身を罰して
 思い知らせてくださればよいのに。

自分の目で自分の不幸を見

全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。

人生の年月が尽きてしまえば
残された家はどうなってもよいのだから。


「人が神に知識を授けえようか。
彼は高きにいまし、裁きを行われる」と言う。

ある人は、死に至るまで不自由なく
安泰、平穏の一生を送る。
彼はまるまると太り
骨の髄まで潤っている。

また、ある人は死に至るまで悩み嘆き
幸せを味わうこともない。

だが、どちらも塵に横たわれば
等しく、蛆に覆われるではないか。

あなたたちの考えはよく分かっている。
わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ。

「あの高潔な人の館はどうなり
この神に逆らう者の住まいとした天幕は
 どうなったのか」とあなたたちは問う。

通りかかる人々に尋ねなかったのか。
両者の残した証しを
 否定することはできないであろう。

悪人が災いの日を免れ
怒りの日を逃れているのに

誰が面と向かってその歩んできた道を暴き
誰がその仕業を罰するだろうか。

彼は葬式の行列によって運ばれ
その墓には番人も立ち

谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。

人は皆彼の後に続き
彼の前にも、人は数えきれない。


それなのに空しい言葉で
 どのようにわたしを慰めるつもりか。
あなたたちの反論は欺きにすぎない。

(ヨブ記 第21章)

続きます。

愛の樹オショチ†
 ウィリアム・ブレイク、ヨブ記への挿絵17「サタンの墜落」、1825

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