2012-09-20

イエスとの出合い(15)天路歴程・地路歴程16

【召命と現実】

神の召命を受けてはいたが、私自身極貧の時代で狭い借家に住み、その日暮らしに明け暮れていた。

その貧しい私に腹を減らした人々が食べ物を求めて来た。

我が家の食べ物はいつもかつかつの有様であった。

その上狭い部屋に泊めてくれと言う人が来て、下の車庫に置いてあるぽんこつの車に泊めたりもした。

大男は、部屋からベランダに足を出して寝せた。朝起きると足は蚊に血を吸われて赤く腫れていた。

かゆみで悲鳴をあげていたが、それでも泊りにきた。

少しずつ弟子が集まりはじめたが、やむなく狭い部屋を聖日礼拝所にしていた。

公私の区部は全部吹き飛んでしまった。

だんだん増えてくる人々を受け入れる余裕がなくなっていた。

私は原則として、献金を受け取らなかった。

貧しい生活者の生活を知り尽くしいたから、僅かな献金が彼ら自身の命に繋がる。

彼らの自尊心にも気を配った。

教会のトラクトは手書きをしたが印刷代に困っていたある日、はじめての弟子が東電の株券を現金に替えて持参してくれた。

50万円也は今から40年前は大金であった。

これが私の伝道の力になったのは言うまでもない。

それから時々、弟子たちの住まいが聖日礼拝所になった。

世田谷ではある大学の学生が増えて、彼らの求めて居るものの違いを感じ、思い切って集会を解散した。

【ふるさとの家】

私は祈って先行きを考えた。

心ある信仰の友、弟子たちと、神との道行きを如何に為すべきか。

貧しい中で、ラザロさんたちへの協力を惜しまなかった弟子たちの信仰生活が悔いを残さず、幸せであるように、願いながら難題に挑戦した。

わたしたちの信仰生活の基盤となる「ふるさとの家」建設である。

しかし先立つ資金が無い。

私を信じて後をついてくる弟子たちの老後を考えた。ユダヤ人はシナゴーク(会堂)を建てた。

神聖な祈りの場であり、子どもたちの学舎、医療施設、共同生活の場所がシナゴークの必要性を高めた。

私の考えた「愛の樹ふるさとの家」の基本的な建物であった。

神奈川県。静岡県。東京。埼玉県。群馬県。あらゅる土地を弟子の戸村裕司と見て回った。

数え切れない。

到底入手不可能と思われた土地が、わたしたちの終の住み家として奇跡的にあたえられた。

資金が集まりはじめた。皆が立ち上がった。

それぞれの身の丈にあった貴重な建設資金を掻き集めた。

神奈川県足柄上郡中井町松本(俎原)1026-16、高台の見晴らしの良い場所である。

ダビデの故事に倣ってここをダビデの丘と呼んでいる。

ここでわたしたちは「神の大いなる祝福を受けた†」


雪の積もった庭から丹沢山系を見る

北に丹沢山系が連なり四季折々の眺めは素晴らしい。

雨上がりの丹沢山系はシナイ山のように蜜雲が垂れ籠め、神秘的な姿に変わる。

南に目を転ずれば、キラキラ光る、湘南海岸が見える。因みに海抜は約150メートルある。

明かりの点いたふるさとの家日田の夜景

ここは、安心して子育てが出来る場所。人生の幸せを感じられる場所。

そして安心して老い行ける最後の終の住み家である。

全景

一見、教会には見えない。

普通の民家が敷地の中に大、中、小の三棟で構成されている。

本館の1階に聖日礼拝所を設けた。

聖日礼拝所

二階の屋根裏部屋に聖所を設けた。

二階屋根裏祈りの部屋

今はわたしたちの大事な神と交わる至聖所である。

雪降る中に立っキリスト聖像

庭に十字架と、イエス・キリストの聖像が立っている。

丹沢に向かって祝福の両手を広げている。

聖像の下の台に置かれた水は、雀たちの格好の水飲み場であり、屋根は彼らの憩いの場所となっている。

偶々私はキリストの聖像に向かって帽子を脱ぎ、胸に当てている姿に感動したことがある。

今は中井町松本のランドマークになっている。

小さな子羊の群れにも地域に根付く仕事の必要性があるとしみじみ思う昨今である。

愛の樹オショチ†

マリア像とパウロ像
ゲッセマネの祈り(ステンドグラス)


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