2012-06-21

義人ヨブ記(job)29「死後の世界」

最近続け様に、親しい方々の訃報が届きます。

私もいつの間にか身近な方々を見送る歳になったことを改めて実感します。

イエスの弟子たちも、肉体が死を迎えた時、さらに死後の世界に深い怖れと関心を抱き、再三イエスに質問します。

イエスは弟子たちに答えました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
(ヨハネ14:1~4)
イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネ14:6)

天国とは、わたしたちが日頃、想像する漠然とした宇宙空間にふわふわ漂うものではなく、はっきり実在する場所だと、イエスは明言しました。

神の御子の特質です。

弟子たちの心の奥底に潜む不安感を見抜き、死の怖れを取り除きました。

人間の肉体が死を迎えた時、何が、どうなるのか?

その有様を4つの言葉で説明した人物がいます(恣意的な解釈がありますがご容赦ください)。

13世紀の哲学者、カトリックの偉大な聖人、トマス・アクィナスは人間の体が天国で得る4つの特質をあげています。

霊妙、輝き、機敏、不滅です。

これはキリストが身を持って示した性質を反映したもの、要するに、体の働きが根底から変わることを示唆しています。

たとえば、サナギが綺麗な蝶に羽化するように、人間も肉体を脱ぎ捨てたときから霊体に変わる(メタモルフェ→化体変貌)すると彼は考えました。

肉体は、原子、分子、細胞で構成されています。

肉体とは、そう言うものです。

宇宙の塵の集合体です。

また、肉体は、魂と違って大きさ、重さ、形を持っていますが、霊体に重さはありません。

【霊妙】

人間の知恵ではとうていはかりしれないほど、すぐれてとうといこと。

【輝き】

神の永遠の霊の輝きです。
シナイ山で、預言者、 モーセが十戒を神に授けられたとき、神はモーセの質問に答えました。

「わたしの名はありてあるもの永遠の霊の輝きであると。」

イエスはその体現者です。

【機敏】

イエスはゴルゴタの丘で十字架の刑死を遂げた後、弟子たちの前にしばしば現れ、食事を共にし、また疑う弟子には傷痕を触らせています。

人間の住む三次元の世界と、われわれ人間には異次元の四次元の空間を自由自在に瞬時に機敏に移動しました。

死後の世界は、わたしたちが帰り行く本当のふるさと、終の住家です。

その有様を明白に示されました。

【不滅】

文字通り、霊魂は不滅です。
よく、永眠と言う言葉を聞きますが、死は新しい霊魂の目覚めですから、天国で眠りこけることではありません。

人間は肉体に(様々な誘惑)振り回されがちな不安な存在ですが、死によって、イエスに似せられ、肉体の支配から解放されます。

魂は浄化され本当の自由が与えられます。

原子、分子、細胞から作られた肉体は壊れても、霊体は神に授けられた永遠の命ですから壊れません。

次回コメント追加します。

義人ヨブ記に移ります。

 【ヨブの嘆き】

ヨブは言葉をついで主張した。

どうか、過ぎた年月を返してくれ
神に守られていたあの日々を。

あのころ、神はわたしの頭上に
 灯を輝かせ

その光に導かれて
 わたしは暗黒の中を歩いた。

神との親しい交わりがわたしの家にあり
わたしは繁栄の日々を送っていた。

あのころ、全能者はわたしと共におられ
わたしの子らはわたしの周りにいた。

乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで

わたしのためには
 オリーブ油が岩からすら流れ出た。

わたしが町の門に出て
広場で座に着こうとすると

若者らはわたしを見て静まり
老人らも立ち上がって敬意を表した。

おもだった人々も話すのをやめ
口に手を当てた。

指導者らも声をひそめ
舌を上顎に付けた。

わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し
わたしを見た目は皆、賞賛してくれた。

わたしが身寄りのない子らを助け
助けを求める貧しい人々を守ったからだ。

死にゆく人さえわたしを祝福し
やもめの心をもわたしは生き返らせた。

わたしは正義を衣としてまとい
公平はわたしの上着、また冠となった。

わたしは見えない人の目となり
歩けない人の足となった。

貧しい人々の父となり
わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。

不正を行う者の牙を砕き
その歯にかかった人々を奪い返した。


わたしはこう思っていた
「わたしは家族に囲まれて死ぬ。
人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。

わたしは水際に根を張る木

枝には夜露を宿すだろう。

わたしの誉れは常に新しく

わたしの弓はわたしの手にあって若返る。」

人々は黙して待ち望み
わたしの勧めに耳を傾けた。
わたしが語れば言い返す者はなく
わたしの言葉は彼らを潤した。

雨を待つように
 春の雨に向かって口を開くように

彼らは私を待ち望んだ。

彼らが確信を失っているとき
 わたしは彼らに笑顔を向けた。

彼らはわたしの顔の光を
 曇らせることはしなかった。

わたしは嘆く人を慰め
彼らのために道を示してやり

首長の座を占め
軍勢の中の王のような人物であった。

(ヨブ記 第29章)

続きます。

愛の樹オショチ†

「聖トマス・アクィナス」 フラ・アンジェリコ画

1 件のコメント:

  1. わたしも死んだあとどうなるのかと考えることがあります。

    人間は、死んだあと霊体に変わることは、はっきり言えます。

    父と兄が、亡くなったあと、霊になり、会いに来てくれてものすごい寒気が来て、一瞬にして、胴体から上の寂しい顔が、現れ消えていきました。天国と言うものが、あるなら、行ってしまったかと思いました。

    母は、やっと大好きな兄に逢えるかと、おもったか、霊としては、現れませんでしたが、それから、もうだめだとおもうとき、

    必ず良い結果になります。父兄母に守られているとつくづく思います。死のおそれはないが、一人残る息子のことを思うと、

    支えてくれる相手が、見つかるまでは、生きて、できるだけ、そばで、元気でいなければと思い、日々頑張って体力つけています。感謝です。

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