2013-05-27

−深夜の美利河峠−

−深夜の美利河峠−

またしても強い風雨である。追われるようにして、松前町〜江差町〜北松山町から、利別川の川沿いに230号線の国道を抜けて、長万部(オシャマンベ)に向かった。

海岸は高波が押し寄せて危険だと感じたし、アイン号(スバルドミンゴ)が高波をかぶったら、電気系統をやられ、ひとたまりもないと思ったからである。

アイン号も私の分身である。大切な神の聖具である。大切にし、いたわらなくてはと思う。彼は黙々と動き、私とアイを支えてくれる大切な友である。彼なしには身動きがとれない。

彼はウンウンとエンジンの唸りを上げて、山坂を一生懸命に走ってくれた。風雨の中、フロントガラスを激しい大粒の雨がまるで生き物のように、こちら目がけて飛びかかってくる。ワイパーも負けてはいない。シャッシャッと音を立てながら、一生懸命に激しい雨に立ち向かって、たたかっている。

アイも緊張気味である。アイン号もアイも私も「三人が」一体となって、何かを目がけて嵐の中を突き進んでゆく。皆、心が溶け合って一体となっている。そうでなくては、このひどい暗闇と豪雨の中を、それも北海道の原生林の中を突き進むことは出来ない。

讃美歌405番、2節を私は歌った。

「荒野をゆくときも、
あらし吹くときも、
ゆくてをしめして、
たえずみちびきませ。 また会う日まで、また会う日まで、
神のまもり 汝が身を離れざれ!」
アーメン

行き交う車の少ない山中、それも深夜である。その時、不測の事態が生じた。アイン号の心臓が突然停止してしまったのである。ライトの光の中から、すぐ向こうに峠が見える。あと数100mだ。

ガソリンのゲージはまだ残量を示している。風雨はこの時とばかり、強く激しくアイン号の痛んだ車体を、容赦なく叩き、揺さぶった。それは、まるで私自身が叩かれているようであった。

私は心を静めて祈り、それから静かにローギアに入れセルモーターを回した。アイン号は苦しそうにウーと唸り、あえぎながら少しずつ坂道を登り、路肩に止まった。これで衝突の危険は避けられる。ほっとした。バッテリーの消耗を防ぐため、持参の懐中電灯に切り替え、ルームライトもパーキングライトも全部消した。あたり一面、文字通り、漆黒の暗闇である。

アイが先ほどから脅え、しきりに私のひざに乗ろうとする。シーズ犬特有の出目の目玉が、今にも飛び出してぶら下がってきそうである。彼女は赤い小さな舌を出して「はあー、はあー」と息づかいが荒い。無理もない。敏感なアイの事だ。それに加えて、山鳴りがひどい。よほど怖いにちがいない。

私はアイの背中を優しく撫でながら語りかけた。「こういう時のために信仰が与えられているんだよ。イエス様が一緒だということを、忘れないようにしようね。神が必ずお守り下さるから、心配しないでいようね」

−祈り−

暫く経つと暗闇に目が馴れてきた。山が、ゴウーゴウーと吠え、山の木々が激しく揺れているのがよくわかる。

風の音。それは雑音のない大自然の風の音だった。太古そのままの原生林の中を吹き荒れる、純粋な風の音。生きている風の音だ。大自然の息づかいだ。人間がいかにちっぽけで頼りないか、それに、気付かせてくれる。風の音に静かに耳を傾けた。

時計の針は午前0時55分をさしていた。やがて、朝がくる。日曜日、聖日である。留守を守ってくれている皆の懐かしい顔が、まぶたに浮かび、自然に涙が溢れて仕方がない。

愛する人々の背後からの祈りを実感した。祈りは、苦難に直面している、私とアイとアイン号の命綱であった。不安でないと言えばうそになる。

体もきつい。肝臓が痛む。ひどい吐き気と頭痛、それに悪寒が加わった。足は氷のように冷たく感覚がない(足の冷えは肝臓病特有のものらしい)
ふと不吉な死を予感した。肝不全には静脈瘤の破裂があると聞いていた。心臓マヒに似ているそうだ。しかし、気を取り直して祈ることによって、恐れが少しずつ静められていった。イエスに救われたあのペテロのように。

寂しい山中で不測の事態に直面しつつ、傷つきながらも、祈ることによって私たちは救われた。体が弱くなると気落ちして生きた心地がしないものである。

「祈りとは何か」

当たり前のようでそうでない事の不思議な祈りの秘密に、祈りの持つ神秘的な力に触れて私は改めて驚いた。「わが心に神の霊、わが心にキリストの霊宿り」と思わずつぶやいた。

(つづく)

「心の旅路」より抜粋

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