2013-09-28

孤高な伝道者吉冨泉先生�

−孤高の伝道者�−

血気盛んな40代、横浜市日吉と六角橋で独立伝道に立ち上がった私の目の前に現れた高齢の伝道者の先生がおられました。お名前は吉冨 泉先生です。

あの頃、私は中古自動車に"神は愛なり"と手書きしたビラを貼り付け、日本列島、南から北へ走り回っていました。

ある時、生まれ故郷の日田に立ち寄った時、藤原哲夫というお方に巡り会いました。九大医学部出身の耳鼻科医でした。(歌人斎藤茂吉の弟子)。
熱心なクリスチャンで、人々に神の愛を伝えていました。日田市三隈川のほとりに、古風な木造二階建ての診療所がありました。藤原耳鼻咽喉科医院は入院施設を完備していました。耳鼻科医としての名声は高く、食事も患者に合わせきめ細かく、九州各地から患者が大勢来ていると地元の人から聞きました。

ある晩、祈祷会があるから参加してほしいと言われ、二階の広い座敷で10人程の人々が集まり、熱心に祈り合いました。その時、同席したのが、吉冨 泉先生でした。少し背中が丸く小柄な先生でしたが、目には光があり、ひとたび祈り始めると、初めて体験する心が震えるような神への霊的讚美がほとばしり出ました。

集会が終わった後、私たちは3人で酒を酌み交わし、それぞれ自己紹介を兼ねて語り始めました。吉冨先生はどちらかといえば寡黙なお方でした。何か言葉にならない重荷を背負っていらっしゃる。これが第一印象でした。

「初めて自分の事を語るですたい」 と、前置きをしてゆっくり話し始めました。

「出身は鹿児島県 指宿、生家は土地の名家でしたが、私の知らない訳があって母は実家に戻され再婚しました。一人残された私は、毎日母を慕い、畑の隅で母の実家の方向を向いて泣いてばかりいました。
そんな私に嫌気が差したのか、『泉は一向に懐かん。可愛げのない子じゃ。そげん母親が恋しいなら勝手にしろ』と言われて、わずか6歳の私は家出をしました。

子供にとっては長い長い母捜しの旅でした。途中で空腹のあまり、畑の土を口の中に入れている自分に気がつきました。
疲れはててやっとたどり着いた母には既に子供がいて、『泉、かわいそうだが、一緒には暮らせないんだよ』と、母は涙をポロポロこぼし、私をその場に置いて『待っていなさい』と言うと、人目をはばかるように家の中に入っていきました。しばらくすると小さな風呂敷に包んだ物を渡して、『お父さんの所へお帰り』。その母の涙でくしゃくしゃになった顔を見ながら、私は一目散に走っていました。
行き先はわからなかったのです。もう帰る家はどこにもない。それじゃなくても嫌われていた私が父の家に戻って歓迎されるはずがありません。

それから…」と先生はしばらくうつむいて、
「12歳の時、道端で募金活動をしている救世軍の士官に声をかけられました。士官は私の貧しい身なりからすべてを察知したようで、救世軍の宿舎に住まわせてくれました。
早天祈祷会、朝食、後片付け。私は一生懸命に雑役に励みました。それが認められ、救世軍の士官になりました。しかし、何か自分の心の奥底にある使命と現実の自分の中に違和感を感じ始め、救世軍を離れました。

私は神にひざまずいて祈りました。
『私の行く先をお示し下さい!』
何の応答もなく日が過ぎていきます。
その時、一つの思いが私の心をよぎりました。『そうだ!土と生きよう!大地と生きよう!』
私は農家に住み込み、農業のイロハを学びました。

時が来て、また旅に出ました。持ち物は、大切な聖書一冊、讃美歌、少しの下着。それだけで充分でした。

当時、農家は日照りにやられたり、害虫にやられたりして収穫は少なく、皆、貧しい暮らしに追われていました。

ある古い農家の離れを借りて、そこで集会を開くことにしました。村人たちはうさんくさい目で私を見つめ、陰口も随分たたかれました。『得体の知れん何処の馬の骨だかわからんヤソ教の男に何ができるとか?』このままでは埒が明きません。私は意を決して農家の人々に声をかけました。

当時、トマトは品種改良も進まず、実が赤くなる前に枯れたり、実が落ちたりしていました。

『私のやり方でトマトを作れば一本の苗木に80個の赤い実が成る。また、種無しぶどうの種の作り方を教えます。』夜、借家に村人を集めて熱心に話しました。

これには村人も仰天しました。それから間もなく、私にまたひとつあだ名がつきました。"ホラ吹き吉冨"です。
私は腹を据えて村人の生活を良くし、幸せになってほしいと思う一心から、一本の苗木に80個の実が成るトマト作りに打ち込みました。

土を調べたり、気候条件、農耕に必要なすべてを日記につけ記録しました。トマトの苗を植えてから、観察日記をつけ、何度も失敗しましたが、遂に1つの苗から大小合わせて、80個近いトマトが出来ました。茎が折れないように成長するに従って竹で枝を支え、日当たりと風通しに目を配り、堆肥を口に含んで味見をし、そうして私の祈りは遂に神に聴き届けられ、トマトという形で実証されたのです。

この現実を目の前にして村人の心は一瞬にして変わりました。それから私の綴った研究ノートを農家のリーダーに渡し、私は黙ってその村を去りました」。

ここまで聞き終えると、藤原先生の目には涙が浮かび、私も神との道行きは、聖句の説明ではなく、身を投げ出す実証だと胸をつかれました。

(つづく)

シラ書:は後に掲載いたします。

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