2013-06-01

美利河峠

美利河峠『ピリカ峠』

−北キツネの子ギツネ−

「ギャー」と突然、暗闇を引き裂くように鋭い叫び声が森の奥の方から聞こえてきた。何かが争っているらしい。漆黒の暗闇だとばかり思っていたが、天の方はかすかに明るい。そのかすかな光の中に光る目玉がある。とっさにライトをつけてみると、何と、アイよりも小さい北キツネの、それもようやく親離れしたばかりの子ギツネが獲物をくわえている。

よく見ると、蛙のようである。じーっとこちらを見つめて動こうとはしない。すごい!この小さな生き物の目にランランと輝く野生そのものの、いのちを視た。

アイをこの山中に出しては恐怖心のあまり、その生命は一夜とはもつまい。彼女は素直にぶるぶると震えている。

深夜の原生林は子ギツネのホームグランドなのだ。風も雨も稲妻も彼の大切な生活の一部なのだ。子ギツネは自由に動きまわり、この大自然の厳しさの中で鍛えられ、生きるための知恵を磨き、育てられていく。

故障しなければ、知らずに通り過ぎたこの出会いは、私に一つの啓示を与えてくれた。ここには、したたかな、生きとし生けるもののリアルな生活の営みの戦いがある。喰うも喰われるも、それが、ありのままの大自然の在り方である。理屈抜きである。不思議に思う事はない。すべてのものは「黙々と成長する」。

神の見えざるみ手の中に、すべての生命が、生死がリアルタイムでここにある。草木も石も子ギツネも、虫や小鳥やアイも私も、雨も風もすべてが揃っている。生命あるものはその生命の形式に従って動き、成長し、そして死んでゆく。そのダイナミックな自然の営みの根元に生命のもつ神秘的な意味と生の存在価値がある。

「子ギツネのエサになった目の前の蛙に平安あれ!」。私の目の前に、誰も傷つけ、損なってはならない大自然の調和がある。実に巧みに計画された絶妙なる生命界のバランスではないか。この自然を傍若無人に破壊する悪者こそ、人間という名の私たち人類ではないか。

今回の北海道伝道旅行に、私はもう一つの祈りを携えてきた。それは、もうこれ以上、人類が愚かしい自らの墓穴を掘るような大自然の環境破壊を、ただちに中止することと併せて、今まで犯し続けてきた事への、お詫びと執りなしの祈りを神に捧げることであった。

誰かが祈り、行動しなくてはならない。
私はアイに言った。
「恐ろしいから、その恐ろしさをありのまま表現して素直にぶるぶるふるえているアイは、素直で、ありのままでいいね」
「子ギツネも偉いと思うよ。人間から見て、険しさが険しいほど、彼は自由で安全なんだから。その中で、堂々と生きている」
「弱虫のアイの素直さと、北キツネの子ギツネのたくましい野生に脱帽するよ」

いつの間にか、私のひざの上で、アイの静かな寝息が聞こえてきた。

(つづく)

「心の旅路」より抜粋

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