【阿蘇外輪山】
敗戦後の日本。
先の見えないどさくさと、混沌の中で私は青春期にさしかかっていた。
広島(1945/8/6)。
長崎(8/9)の原爆の悲惨な出来事は私にも無縁ではなかった。
私は生きることにもがいていた。
何かぽっかり心に穴が開いてしまった。
埋めようの無い大きな穴が。
虚無感に襲われていた。
多情多感な年頃で、国中が、何もかも嘘と、疑問だらけで息苦し毎日だった。
戦争たけなわの頃、軍事国家の喧伝は、神国日本は、必ず勝つ!
あの蒙古襲来の元冠(げんこう)の国難に神風が吹いて蒙古軍は壊滅した。
従って、神国日本は不滅であると、教師に教え込まれていた。
昨日まで、鬼畜米英と戦い、もし負けたら日本人は全員殺される!覚悟をしなさいと、言われたが正直、ぴんと来なかった。
まもなく教科書は真っ黒な墨でアメリカ人に都合の悪い箇所は塗り潰し、意味不明の教科書に化けていた。
手のひらを返した、あからさまな大人たちの醜態に私は人間不信に落ち込んでしまった。
最悪状態に落ち込んでいた時、母に勧められて、人々のお役に立つから建築家になれと言われて日田を離れて福岡(博多)で、一人暮らしをはじめた。
母の言いつけを守り、それなりに、専門学校で勉強に熱中していたが、心は満たされなかった。
そんなある日突然、阿蘇高原に行けと誰かが囁いた。
福岡市に下宿していたが、学校には行かず、肩から、白いカバンをぶら下げて、私は久大本線に乗っていた。
ふるさと日田駅を通過する時、ちらっと!母の姿を思い浮かべて、キューンと胸が痛んだが、黙って見慣れたふるさと日田を眺めていた。
18歳の秋であった。
学生服に学帽をかぶり、腰にタオルをぶら下げて高下駄を履いていた。
由布院駅の手前の駅で下車して、阿蘇高原の一角、飯田(はんだ)高原に向かって、山道を登りはじめた。
高下駄で険しい山道を歩くのは難儀であったが、囁く声に憑かれたように、"はあーはーあ"喘ぎながら歩き続けた。
途中、一軒家のひなびた温泉宿を見つけて、立ち寄った。
宿の人から「あんた学生さんじやろ?そげん格好で、この時間にどこにいくと?と聞かれた。」
「飯田高原に行きます」
「今からじゃ、ガスが立ち込めて危険じゃ!火山ガスを吸うと危険じゃからやめんね!」
宿の人は何か異様な雰囲気の若者を心底心配してくれているのがよくわかった。
しかし私の決心は変わらなかった。
宿の人も諦め顔で、「なら、温泉に浸かって、気をつけていきなさい」と、すすめてくれた。
私は、はい!と答え素直に温泉に浸かった。
まだその時、ガスの本当の恐ろしさに気付いていなかった。
【カラス?峠】
飯田高原の途中に火山ガスが噴出する危険な場所があるから変な臭いがしたら、タオルで鼻と口を塞いで、
直ぐ下山してこの宿に来るように念を押された。
その場所は、すすきのたくさん生えているところじや!一目見たら直ぐわかるばい。
間違ってすすきの生えているところに入ったら、命を落とすよ!
(今、生きて、イエスのしもべとなり神と人々に仕える身を思うと、あの日、命拾いをした不思議な運命の巡り合わせをしみじみと思いかえさずにはいられない。)
「人生には不思議な巡り合わせがあり、それは予期せぬ、ほんのちょっとしたきっかけが動機となる。あれから60年近い歳月が流れた。
私も来春、80歳になるがまだまだ青二才に過ぎない。
歳月は"まさに光陰矢の如し"。
感無量にたえない日々である。」
思い返すと、あの、ひなびた一軒家の温泉宿。
数時間後、宿の主人の機転と優しさに私は命拾いをした。
【遭難者】
ジョン・バニヤンの話しの中に出てくる銀の谷の欲深な誘惑者に、誘惑された旅人のように、私も愚かにも自ら危険にはまり込んでしまった。
山道の途中から全山が白い靄にすっぽり包まれてしまった。
白いすすきの原付近に迷い込んでしまったらしい?
宿の主人から聞いた、ツーンと鼻をつんざくような異臭が辺りにたちこめていた。
私はとつさにタオルを鼻に当てて恐怖心に駆り立てられた。
恐怖心と闘いながら安全な場所を必死に探した。
刺激臭の強いガスは硫化水素だと後で知らされた。
だんだん気が遠くなっていった。
なんとか生きて帰りたい!初めて真剣に行きたい!と願った。
何かにつまずいて、私はばったり倒れた。
微かに冷たい空気が指先に感じられたが、後は、プッツンと意識が途切れてしまった。
闇の中をあてどなく彷徨い(さまよい)歩く、亡霊のように不安と恐怖におののく私がそこにいる。
しばらくすると、何か周りに人の気配を感じた。
誰かが私の身体を揺すり、ほっぺたを叩いている。
暗がりの中にぼんやり灯りが見えた。
少しずつ意識が戻ってきた。
下から見上げると三人の若い男たちが私を取り囲んでいた。
「どうやら、こん若いもんは助かったぞ!それにしてもむちゃくちゃじやなあー!よほど運の強か、男ばい!自殺しにきたんじゃろうか?」
男たちの会話を聞きながら、私はやっと立ち上がった。
あんたは学生さんか?、下の温泉宿に立ち寄ったね? 宿の主人から、自殺しそうな若い学生さんが、山に登っていったから助けてくれと報せがあったから直ぐ仲間を集めて、あんたの後を追い掛けたが、白い靄であんたを見つけられなかった。
とにかく生きて援けられて良かった、良かった!と、命の恩人、山男たちは嬉しそうに互いに笑顔で話し合っていた。
あんたが今どんな場所にいるか?用心して下を見てご覧。と、言われて、恐る恐る覗くと、後少しで、底知れぬ断崖絶壁がそそり立っていた。
ぞっとして鳥肌が立った。
私は恩人たちに深々と頭を下げて、ご心配をお掛けしてスミマセンと謝った。
それから、ここに自殺しにきたわけではなく、生きる道を探しにきました。と、ありのままを伝えた。
また、温泉宿の主人にこのご恩は決して忘れません。
必ず何か役立つ人間になってご恩がえしをします!と、恩人の山男たちに伝言を伝えてくださいと頼んだ。
彼らの案内で飯田高原の阿蘇高原側に近い温泉宿に一晩泊まり、私は別の山道を下り、別の駅から再び、蒸気機関車の三等車に乗り、機関車の煙突から出る石炭の煤で顔を真っ黒にしながら宇佐郡の父親の姉の住む家に向かった。
私の魂の遍歴、天路歴程・地路歴程の始まりであった。
続きます。
愛の樹オショチ†
先生の今まで、生きてきたと言うより、生き抜いてきた道のりには、いろいろな人に出会い自分という存在を知り、感謝をもって過ごしてきたのですね。
返信削除私の過去は、後悔の連続でしたが、その時は、精一杯だったとおもいます。
過去に戻れたとしても、同じことをしたように思います。
これから先は、死ぬ時に、悔いが、残らないよう、周りに迷惑かけない程度に、やりたいことを、やろうと思います。まずは、体力つけることを第一と考えています。
ありがとうございます。