奇跡的に命拾いをした私は、三等車の硬い席から車窓を流れる景色をぼんやり眺め自問自答していた。
これから何を目標に生きたらよいのか?
さしあたり、学校に戻ることにした。
今は、思いつかないが、母の言いつけを守り、とにかく建築家になろうと考えた。
しかし、建築家になるには国家試験の難関を突破して一級建築士の資格を取得しなければならない。
頭が痛くなり、到底不可能に思えた。あまり勉強好きではない私の高望みぐらいにしか思えない。
しかし、あの飯田高原の遭難から奇跡的に援けられた約束は果たさなければならない。
命の恩人に嘘をつくことになる。
頭の中をいろいろな考えがぐるぐる回る。
窓からは容赦なく、蒸気機関車の煙突が吐き出す石炭の燃えかすが車内に飛び込んでくる。
洗面所にいき顔を洗おうとしてふと、自分の顔を鏡で眺めた。
煤だらけでまるでマメ狸に見えて笑ってしまった。
その時、ストン!と肩の力も抜けてしまった。
なるようになる!
成らなければそれで良い!
心の片隅に少し灯りが見えた。
【洗礼者は吠える】
博多の中洲の河口付近に教会が見えた。
日本福音ルーテル教会博多教会。
私は自分の意志ではじめて教会の門をくぐった。
牧師は、鉱山技師から牧師になった大男の山内六郎牧師であった。
はじめて牧師の説教を聞いて驚いた。
何に驚いたかと言えば、山内六郎牧師の説教は一人舞台の俳優のようだった。
説教台から離れて、聖壇の前を行ったり来たり、両手の拳を振り上げて、ヒグマのように吠えていた。
私は度肝を抜かれた。これがはじめて見たキリスト教の説教者の姿であった。
熱血漢の山内六郎牧師から翌年の春、復活祭に洗礼を受けた。
後年、東京大田区蒲田の教会に赴任して来られた、山内六郎牧師は白髪の穏やかな先生に変貌しておられた。
今まで、あれ程の熱のこもった説教をその後一度も聞いたことがない。いろいろな説教者にであったが、何か白けて見えた。
1947年造の日本福音ルーテル博多教会
【洗礼者ヨハネ】
紀元前二世紀から、死海沿岸の荒野に、「エッセネ派」と呼ばれるユダ教の宗団がクムランに住み始めた。
「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために大路をまっすぐにせよ」(イザヤ40:3)
クムランの遺跡から.1947年、ベドウィンの少年がクムランの洞窟から、羊皮紙に書かれた死海写本を発見して、クムランの遺跡は一躍世界的に有名になった。
クムランに住み始めた、エッセネ派の中に洗礼者ヨハネがいた。
「幼子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた」(ルカ1:80)
これは祭司、ザカリヤの子、洗礼者ヨハネの出現である。
伝説では、ヨハネが生まれたとき、両親のザカリヤとエリサベツは、すでに高齢に達していたためヨハネは幼少のとき孤児になった。
そして、エッセネ派は男性だけの厳格な跡継ぎとしてヨハネのような孤児たちを集めて荒野で生活したといわれる(聖書辞典)。
エッセネ派の人々も、ヨハネも、この時代が終わりの時であるとみなしていた。
そしてある人々は、洗礼者ヨハネを終わりの日がくる前に遣わされた神の使い「エリヤ」と同一視していた。
【ヨハネの常食?】
ヨハネは野蜜といなごを常食としていたが野蜜とは、蜂蜜ではなく、なつめやし(タルマ) の実を指すといわれる。
なつめやしの実は一本の房に数千個の実を結び、乾燥した物は甘い果実となる。
なつめやしの実を潰して砂糖代わりに食用し、食糧不足のときはこれをもって主食を補った。
いなごは昆虫のいなごではなく、イスラエルに多く植生する、いなご豆の木を指しているといわれる。
いなご豆は放蕩息子の例え話しの中で、家畜の飼料として知られている(ルカ15:16)。
安価なため貧しい者の食糧になった。いまでもベドウィン(遊牧民)たちは好んで食べる。
【イエスの洗礼】
イエスは洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けた。
イエスの母マリヤとヨハネの母は従姉妹であるから、人間的には血縁関係にある。
続きます。
愛の樹オショチ†
「イエスの洗礼」アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1473~75頃)
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