「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」
とあなたは言っているが
あなたのこの考えは正当だろうか。
またあなたは言う。
「わたしが過ちを犯したとしても
あなたに何の利益があり
わたしにどれほどの得があるのか。」
あなたに、また傍らにいる友人たちに
わたしはひとこと言いたい。
天を仰ぎ、よく見よ。
頭上高く行く雲を眺めよ。
あなたが過ちを犯したとしても
神にとってどれほどのことだろうか。
繰り返し背いたとしても
神にとってそれが何であろう。
あなたが正しくあっても
それで神に何かを与えることになり
神があなたの手から
何かを受け取ることになるだろうか。
あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に
あなたが正しくても
それは人の子にかかわるだけなのだ。
抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ
権力者の腕にひしがれて、助けを求める。
しかし、だれも言わない
「どこにいますのか、わたしの造り主なる神
夜、歌を与える方
地の獣によって教え
空の鳥によって知恵を授ける方は」と。
だから、叫んでも答えてくださらないのだ。
悪者が高慢にふるまうからだ。
神は偽りを聞かれず
全能者はそれを顧みられない。
あなたは神を見ることができないと言うが
あなたの訴えは御前にある。
あなたは神を待つべきなのだ。
今はまだ、怒りの時ではなく
神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので
ヨブは空しく口数を増し
愚かにも言葉を重ねている。
(ヨブ記 第35章)
続きます。
愛の樹オショチ†
ジャン・フーケ「エティエンヌ・シュバリエの祈祷書」 1452~42
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