2009-12-29

どん底の聖者ー心の旅路より


かさこそと、枯れ葉が冷たい風に吹かれて道に舞う。未曾有の大不況と失業。寒さと飢え。ホームレスの人々にこの冬も帰る家はない。

病み傷ついた身をいたわりながら、ホームレスの兄弟(ラザロ)たちは、ひたすら何かを求めて真剣に今も生きている。

人間としての様々な苦しみ、その重荷、過去を決して人に語ろうとはしない。

昨年の暮れ、エクレシア(現在の「愛の樹」グループ愛の会のこと)の兄弟たちと手分けして私たちは、不況の嵐吹き荒ぶ、寄せ場(ドヤ街)の兄弟たちの所へ、中古の衣服、食料品、それに支援金を持っていった。

名古屋ではドキュメンタリー番組「風の群像」に出ていた、笹島日雇労働者組合のリーダ一大西豊兄や、同志の向山良兄が中心となって駅前近くの公園に救護テントを張り、ホームレスの仲間たちのために炊き出しをやっていた。

たき火を囲んで、年老いた人が黙って火に手をかざしている。

赤々と燃えるたき火の炎が冬の夜空を焦がし、貧しい身なりの老人の姿を暗閣の中に浮かび上がらせていた。

その手は黒く、顔にも頭髪にも、長年の放浪生活の厳しさが刻みこまれていた。

「無言の老人」

何をどうのようにして、この厳しい運命を生きて来たのか、過酷なこれからの人生の道行きは、果たしてどうなるのか? その行き着く先は?

思えば思うほど胸が痛んだ。だが、不思議な感動を受けた。たき火に照らされたその横顔には、この世の煩悩を解脱した「聖者」のような面影があった。

人は侮蔑感をこめて言う。彼らは人生の落伍者。怠け者。いわく世捨て人等々。

この人々の現在の境遇が自分の身から出た錆であれ、たとえ人にだまされてひどい目にあった結果であれ、それを黙って受け止め、孤独と不安と焦燥の中に身をさらし、耐え抜いて、その生を一生懸命に生き抜こうとしている姿に、私は素直に感動する。

誰も不幸を望むものはいない。又、人生の成功、不成功は「神のみ手」の中に、人間の手を離れたところにあると私は思う。私はこの人々の生き方を美化するつもりはない。

唯、あるがままを、そのままを受け入れ、容赦なき人生の行き詰まりに甘んじ、人生の荒波に翻弄されつつも破れをつくろわず、一人の人間として、その生を必死に、真摯に生きている姿を目前にして改めて生きることの尊さを、生命の深い意味を思うのである。

私はある老人にたずねたことがある。

「今、何をお望みですか」

年老いたホームレスの兄弟は暫く考えてから、「もし生まれかわることが出来るなら、人のために尽くすことの出来る人生を望みます」と答えてくれた。



「心の旅路ー苦難の中に身を置いて知る 神の愛」より

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