むしろ非常識に近い存在者でした。
頼まれたお弟子もかなり変り者でした。
細かい説明は省きますが、余程の素質、何より神の使命を帯びて居いないと、人間の思い込みでは、
明らかに師と弟子たちの信仰の質が違いました。
先生は、
真理に根差した信仰には、打算、狂信、狂気、盲信は無関係です。
やたら、自己的な熱心に、“何かに”、のめり込んで、人為的に(作為的に)作り上げたものは、
化け物です。
聖霊が働かない状態で、自分に特別なカリスマが在ると錯覚しますと、
ルシェフル、落ちた天使、サタンと化します!
あの旧約聖書の創世記に登場する、
同じ行為に似ていながら彼らの隠された人の本質が試され、
神は真心からの捧げ物を祝福されたのです。
真心から出たものは神の祝福を受け、見せ掛けは否定されます。
吉冨先生の晩年は、自ら育てた弟子たちの行く末を案じて、危惧の念でした。
カインとアベルは、同じ親から生まれたにも関わらず、
「神はいるのか?いないのか?いるとすれば、どうしたら解るのか?
「神は→
聖霊に満たされた人々、神の愛に導かれた先人たちの死は、困難に打ち勝ち、苦難を乗り越えるに
何でも、心ですね。真心ですね。ときどき邪心が、心をよぎるが、そんなときは、良くない結果で、終わりますね。すべてに、真心を以て接すれば、自分に帰ってきて、生きる希望が、頑張る勇気が持てますね。いつも、心を、奮い立たせてくれるブログありがとうございます
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