2009-05-30

目の前の

「目の前の
一つ々を
越えて行く
生きる力は
あなたから
合掌!」
オショチ句集:110

人間は心の支えがなければ、生きられません。

苦しい時に、絶望した時に、何かに、殊に宗教にすがる人の気持ちが良く分かります。

信仰は弱い人間に大事な役目を果たしてくれるのです。

“苦しい時の神頼み”それで良いのです。

知り合いの偉い先生が言いました。

「困っているときばかり神様にすがり自分の都合が良くなればしらんぷり。不信仰者めが!」

確かに言われる通りですが、しかし、私は無駄だとは思いません。

必ず心の片隅に感謝の気持が残ると思います。

いつの日にかまた、“苦しい時の神頼み”。

でも、苦しみを乗り越えて行けたら、その命の存在を心底喜んでくれる人がいるはずです!

命はかけがえのない尊いものです。

前にも記しましたが、イエス様も「命を失えば 例え全世界の財産を手に入れてもなんの価値があろうか」と、人々に話されました。

最後に人々は救われるのです。

イエス・キリストの御心は優しさと慈愛に満ちています。

オショチ句集の110句は、もう駄目か?と、死を覚悟したとき、生き抜ける!と、確信を頂いたとき、産まれた句でした。

神の御心は遠大です!

2009-05-29

敵を愛しなさい

しかしわたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。
敵を愛しあながたを憎む者に親切にしなさい。
悪口をいう者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう片方の頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には下着をも拒んではならない。
求める者には、だれにでも与えなさい。
あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな恵みがあろうか。
罪人でも、愛してくれる人を愛している。
また、自分に良くよくしてくれる人に善いことをしたところでで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。
罪人さえ、同じものを返してもらうとして、罪人に貸すのである。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。
そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。
いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも、情け深いからである。
あなたがたをの父が憐れみ深いように、あなたがたにも憐れみ深い者となりなさい。
ルカ6:27-36

厳しい教訓

普通人には理解しがたい、実行不可能と思える難題です。

とてもキリストについて行けないと感じます。

私も深く悩み抜いた聖句の一つでした。

困難な要求。平凡な人間には実現不可能なことです!

おっしゃることは頭で理解出来ますが、いざとなると出来ません。

無理難題を何故?キリストは弟子たちに語られたのか?

しかし文字通り、完全にみ言葉に従い通した人物がいます。

最近では、インドのカルカッタのスラム街に身を投じたマザーテレサです。

記憶に新しい愛の使徒でした。

また、ハワイのモロカイ島のハンセン病の人々に生涯を賭けた、ダミアン神父。

あのアウシュビッッで友の身代りなり餓死したコルベ神父。

聖霊が働くとき人は捨て身になれると言う実証です。

使命感を受けた時に、平凡な人でも変えられて、人のために喜んで身を捧げます。

現世の肉の打算、人間の思惑、それらの予想を遥かに越えた力が人間に働くのです。

愛の奇跡です。

あの使徒パウロが成し遂げた、愛に根ざした伝道も、聖霊の愛に助けられた証しです。

クオ・ヴァデス? 主よ何処へ?

ローマのバチカン宮殿は、弟子のペテロが逆さ磔つけにされた死刑場の後に建立されました。

ペテロが恐怖心に襲われ逃げて行く途中、キリストに逢いました。

「ペテロよ何処に行くのか?お前が死を恐れて逃げるならわたしが身代わりになろう」

「わたしが†字架の死につく」と言われて、彼はアッビア街道を引き返し、ローマの兵士に捕われ、有罪となり刑死を遂げました。

キリストに出会わなければければ、逃亡者として彼の名は闇に葬り去られたかも知れないのです。

今でこそ 「聖ペテロ(サン・ピエトロ)寺院」大聖堂に祀られていますが、キリストの聖霊抜きに有り得ない奇跡の証しです。

日本人が初めて触れた宣教師たちの命賭けの伝道がなければ、わたしたちにはキリストの福音は伝わらなかったかも知れないのです。

私も救いに預かりました。

絶望の日々から!身を捨てる勇気を与えられました!

寛容、豊かな心が人類を救う

今世界中が殺気立っています。

隙を見せないように理論武装し、また最新兵器〈殺人の道具〉で身構え、外交も実りのなく、何か結末が見えてくるような始末です!

昔話ですが、ロシアにイヴァンという人がいました。

イヴァンの馬鹿』の物語は、イヴァンは他人の幸せだけを願い、いつも損ばかりするのですが、いつか人々が優しさに目覚め、愛し合うようになる素敵な物語です。
現実離れした夢のような話ですから、余計夢が膨らんで来ます。

隣国の北朝鮮の金正日氏の、6か国協議が、彼の体の痛みを少しでも和らげる思いやりを、会談の冒頭、真心から伝えたら、今までとは違う成果があるのでは?

持ち続けたい夢と誇り

日本は四方を海に囲まれた島国ですが、北から南まで四季に恵まれた季節感を満喫出来る豊かな国です。

土地柄と田舎でよく聞かされましたが、素晴らしい文化が育ちました。

地方に行くと、数え切れないほどあります。

至る所に鎮守の森があり、人々の生活を見守っています

迷信もありますが、この気候風土から産みだされた最高傑作は日本人の気質だと信じています。

大切に守る価値があります。

外国人も、日本の生活に根付き、奥行きのある歴史、文化、優しさに触れては、虜になります。

歌舞伎、生け花、茶道、武道、道の文化に魅せられます!

素晴らしい遺産です!

日本の再建は日本人の手で

歴史に残る世界の偉人たちが人類に残してくれた尊い遺産がたくさんあります。

人間の心が浄化されて神の慧知をいただき、それがまた人類に還元されていきました。

我々日本人も恩恵を受けました。

純粋な人類愛から産まれた進化のための、エネルギー、エンジンです!

我が国の長所は本質的には穏和で勤勉、実直、誠実な国民の筈でしたが?

私は世界に類を見ないこの資質を大切に精神的遺産を、これからの世界の兄弟姉妹たちにお知らせ出来たら?と、思案しています。

共感出きる価値の輸出です!

ものばかりではなく温かい心の輸出です!

夢でしょうか?

国連にもです!

思い切る勇気が必要です

私事ですが、父方の身近な親族に、昭和7年2月9日、東京・本郷、駒木小学校の選挙演説会場を出た所で、日蓮宗の狂信徒の凶弾に倒れた、民政党2代目総裁井上準之助がいます。

背中に至近距離から、ピストルの弾3発を打ち込まれほぼ即死状態でした。

大分日田の生家には、生々しい血のついた黒いコートが今も大切に保存されています。

私の祖母の弟ですが、私の血の中に流れているものは紛れもなく、隔世遺伝子です。

血が騒ぐのです。

国の明日の行く末が大変気にかかります。

一つ大事な提案があります。

今度の衆議院議員総選挙に あなたの本音の選択をして欲しいのです。

とにかく政権交代は是非やり遂げなければならない大事な節目に差し掛かっています。

政界大編成のチャンスを怠惰に見逃したら後悔します。

失敗を恐れず日本人の決意を今度の衆議院議員総選挙に示すべき責任を、我々は負うています。

ただ親が代々議員だからの、いい加減な身内の、おらが村の選挙では、変化の激しい国際社会に、知恵を振り絞って、自国の利益に目の色を変える国々の力に圧倒されてしまいます。

自国の政治家に愛想を尽かし、ただ絶望、非難、他人事の評論だけでは、この澱(よど)んだ国は再生不可能です!

情実に捕われない、毅然とした、国民の決意が世界中の注目を集めます!

日本人の優れた心の選択、人類に貢献できる人格を備えた国に、“チェンジ”する可能性は十分あります!

この国の未来は?

昨日テレビで、静岡県の知事さんが静岡空港の開港遅延の責任を取り辞任するというニュースを聞きました。

滑走路の離陸位置から僅かな場所に、高さ30メートルの立木が数十本ありそれが邪魔になったという話でした。

地主の話も聞かず彼を傷付け、基本計画の過ちを明らかにせず問題を擦り替えた?のが真相でしょう。

ある県知事さんがゲスト出演して、“行政の無謬説”を持ち出していましたが、ナンセンスです!

いま政府、国会議員、官僚たちのスキャンダルが毎日マスコミを通じて国民に流さています。

国の将来が心底心配になります。

国民の意思もはっきりしません!


政権が長引くと腐敗する。

それを許し、黙認したのは、わたしたち日本人です。

その国の政治のレベルは、そのまま国民の精神のレベルです。

優れた政治家を育てられないのは、育てる高い見識、知性、意識、意思、熱意に欠けている証拠です。

自分さえよければ、他人はどうなっても構わない、利己主義までアメリカから輸入した、そのままが政治に国の運営に現れています!

この国に自尊心はないのでしょうか?

強権国家におもねる!後進国に冷淡な悪い癖は、少しずつ消えて来た感じもしますが、まだまだこの国を建て直すには凄いエネルギーが必要です!

国民の肩にこの国の将来が、我が子たちへの責任が、重くのしかかっているのです。

先日の与党野党の党首討論は国民の心に届いたのでしょうか?

相手の言葉尻をあげつらうだけ。

一通りの理屈は並べても、内容に新鮮さが感じられませんでした。

腹の底に“ずしん!”と、響くものがないんです。

本物ならたとえテレビの音声を消しても無声の画面からでも、その人物のエネルギーが意思が伝わるはずです。

ただ口をぱくぱくさせている画面では、見聞きする側はシラケテしまいます。

政治家の中でも、際立つ政治家が昔はたくさんいました。

彼等の述べる国家に対する情熱が伝わって来ました。

ラジオを聞き、またテレビ、新聞などを見るのが楽しみでした。

人物に魅力がありました。

今どき魅力のある人物にお目に係ることは滅多にありません!
代わりに何だか得体の知れない人物がマスコミに登場し、雑然として、落ちつきがありません。

何か浮き足立っている危険さえ感じます。

政治、財界、官僚、民間、宗教、教育しかり!

どうすればまともな国になるのか?

悩みは尽きません!

2009-05-28

神秘的な生命

生命、文字通り生きる命です。

60兆もあると言われる人間の細胞が、複雑な人間という生き物を作りあげているんですね!

今回、悪性リンパ腫と右腎臓癌の疑いがあり、大きな手術を受けたことは何度もお話しましたが、悪性リンパ腫の特定には、先生方がDNAの検査を含めて、染色作業など気が遠くなるような作業を真剣に続けて下さいました。

改めてこの体をしげしげと眺めまわしています。

不思議なんです?何故?悪性リンパ腫と疑われる生き物がこの体に出来たのか?

炎症の診断ですが?炎症を引き起こした原因をなお先生方は追求しておられます。

生命は神秘的です!

定かでない人間の真の評価

真実を求めてさ迷う人間!世界中の文豪の力作は、愛・神・罪などが主題の下敷にありました。

真実の追求を人間の精神生活の中心に見据えて書いた、ドストエフスキー、スタンダール、ダンテ、ゲーテ、モーパッサンの『脂肪の塊』など。

若い頃夢中になり読み耽ったものでした。

深い感動に浸りました。

文豪の筆にかかると何気ない会話、少しの仕草、自然との対話などが、活き活きして、言葉が個性を持ち、生き物になる不思議な力に圧倒されました。

私は建築家の道を選びましたが、心の奥底では納得していませんでした。

作品を産み出す力量は、当たり前ですが、何か不純なものが絡みこんでいると、不審が拭えませんでした!

特に形だけの設計コンペには、人脈、コネ、政治、 打算など!が絡みこんでいました。

国連ビルの本当の設計者はブラジル人のオースカ・ニーマイヤーだと聞きました(ブラジルの首都ブラジリアの都市計画を手掛けた建築家)。

ですが、師匠の建築家、フランスの巨匠と言われた、ル・コルビュジエの手に落ちました。

ル・コルビュジエに弟子入りした日本人の建築家もいました。

表面だけではその人物を本当に知ることは不可能に近いのかも知れませんが。
私は建築家の仕事を離れましたが、私より若く確な建築家の出現に安心感を抱きました。

独学で建築界に踊り出た建築家の安藤忠雄です。

彼は若い頃、ヒッピー族になり、体一つで、外国に渡り、ボクサーもやり、リングに上がった実戦家です。

心の遍歴の中から何か宇宙の命に触れて、独学で難関を突破したと聞きました。
建築物は設計者が個性を発揮出きる戦場です。

深く考え慎重に、精密に計算されて、産みだされる作品ですが、彼の作品には何か、あのカリスマ的天才建築家スペインのアントニオ・ガウディーを彷彿させるものを感じます。

作品はいたってシンプルです。

コンクリートの肌あいを活かし、アントニオ・ガウディーとは対象的ですが?何か触れ合うものがあります!

やる気

愛されて命が育ちます。

育てられた命は、愛で生きますから、周りに愛の命が集まり、さらに愛の輪が出来ます。

愛は与えます。要求はしません!

与える事で豊かになるのです。

損して得するのとは、違います。

打算的ではありませんが。結果として豊かになります。

心がです。

人は愛の奥深さを知るとさらに深く広く高く知りたい、奥義を極めたいと願うようになります。

科学者、物理学者、天文学者のようにです。

真実を知りたい、そこに到達したいのが人間の本能でしょう!

とにかく何でも極めて見るまで投げ出さなければ、何かを掴みます。

やる価値があります。

愛がなければ?

愛がなければ、命は育ちません。
残酷な実験をした王様がいました。
確か? ドイツのフリードリッヒ王だと記憶しています。
王様は部下に命じました。
「二組の赤ちゃん達を別々にして一組の赤ちゃんには声を掛けながらミルクを与えよ!もう一組の赤ちゃん達には、黙ってミルクだけを与えよ!」と。
結果は悲惨でした。
声を掛けられた赤ちゃんは生きて、ミルクだけを与えられた赤ちゃんは皆死んだという話です。
この話から、人間は愛がなければ命を生きることが出来ない!と言うことが分かります。
聖書にも書かれています。
「人はパンのみにて生きるにあらず」と!

愛の教訓

私が愛の教訓を学んだのは、(心底から体験したのは)少年時代でした。

悪童の私のいたずらが止まらず、ある夜庭の柿の樹に縄できつく縛りつけられました。

一晩中です。

腹は減るし、足元から蟻んこがはい上がって来ます。

悲鳴をあげたい気持ちを必死にこらえました。

自分のいたずらを棚にあげ、母への仕返しを考えていました。

「いまに見ちょれ!必ず仕返しするばい!」

縄をほどこうとしますが、反って手首に食い込んできます。

もう諦めました。

なるようになる!腹をくくると眠たくなりました。

どのくらい経ったのか?

“かたっ!”

はっと!して目を開けると母の姿が目に飛込んできました。

一晩中私を見守っていてくれたのでした。

悪童の将来を深く考え、憂いていたのです。

母は涙を流していました。

さすがの悪童もはっ!としました。

深く胸を打たれ、母の前に手をつき心から「ごめんね!」と謝りました。
母の教訓は体当たりでした。

私が勉学のために上京すると決めた時、なけなしのお金をはたいて渡してくれました。

久大線・日田駅のプラットホームから汽車が見えなくなるまで手を振り続けていました。

今も瞼(まぶた)の裏に焼き付いて離れません。
母の愛に私は育てられました。

決して忘れません!

2009-05-27

美しく懐かしき日々

歳を重ねると過ぎ去った日々が美しく、懐かしき想い出になります。

苦しいことまでが、美しい想い出に変わるのです。

セピア色ですが。

最近味わった悲しい出来事。

親しき病友の死までが、何故か遠く昔の出来事のように感じられるのです。

「お互い、愛する人のために生き抜こうね!」と、ベットで、固く握手を交し誓い合ったのに、友は私の知らぬ間に帰らぬ人になっていました。

今思い返すと、気付かぬ間に濃密な友情がしっかり芽生えていたのです。

心の中に友はしっかり生き続いています。

これは時間の長さではなく、愛の距離なんですね。

静謐で確かな友情です!

少し感傷的になりましたが、人間は一人では生きられない生き物なんだと、しみじみと思わされました。

だれかに支えられ、また、支えたりしながら、一生懸命に生きて行く姿に感動します。

殊に病気になった場合は、病床を訪れていた友の奥さんは別に何かするわけでも無く静かに側にいるだけでしたが、彼は十分幸せだったと感じました。

人間は、尽し合い役立つことを通して自分も生きられる。

平凡な毎日が、如何に大切でかけがえのない貴重な日々なのか、と心に染みました。

たまに夫婦喧嘩もまた親子の意見の食い違いも、根底に信頼と愛があれば幸せです。

2009-05-26

終末の徴・苦難の予告〜悔い改め

イエスのみ言葉に戻ります。

イエスの予告に

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことが起こるに決っているが、まだ世の終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。(マルコ13:7-8)

さらに「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マルコ13:24-27)

拙著『オショチ句集』の63句に記しました。

「忘れまじ
きのこ雲と
閃光の
下に
人の
暮らしあり
原爆投下の
罪、
誰が負う?」

原爆を人類史上初めて使用した、アメリカ!

広島、長崎の悲惨な光景を見て、何ら良心の苛責苦を感じないのか?

この国は キリスト教の盛んなお国です。

「汝殺すなかれ!」モーゼの十戒はなんのための神の掟、戒めなのか?悔い改めが求められているのは誰ですか?

破壊・核実験の結果は?

昨日、隣国北朝鮮で2回目の地下核爆発実験が行われたと、報道されましたが、プルトニウム(地獄の王)の恐ろしさが、全然人間には分からないのか?と、強い憤りを感じます。

自分たちの足元を核爆発させて、大きな穴をあけ続けたらどうなるのか?

また、核物質を空高く巻き散らしたらどのような悲惨な結果になるのか?

人間は、救い難い生き物なんだと、憤りを通り越して深い悲しみに襲われます。

政治家?科学者?それを支える技術者、それぞれ家庭を持ち、愛する家族に囲まれているのに一瞬にして消え去るかも知れない“地獄の王”の破壊力をもて遊ぶ危険。

人間の愚かさをここで非難しても解決策は見当たりません。(つづく)

代償の真理

イエス・キリストの†字架の刑死は人類救済の代償です。

神の御子にしか出来ない大役です。

我々人間と精神構造が異なるお方の側にいて、キリストを間近に見ていたはずの直弟子ペテロさえ、キリストの本当のお姿を理解するには、あのカルバリの丘の劇的な事実を目にし、また復活の奇跡、聖霊降臨(ペンテコステ)を体験するまでは謎でした。

聖霊降臨日の体験以後、弟子たちはやっと変わりました。

私は時々夜中に迫り来る足音を聞きます。

サンダルが乾いた土を踏む足音です。

サンダルの足音は キリストと弟子達の足音です。

長旅で土ほこりと破れた衣の裾が見えます。

描写は不変です。

十字架のイエス

このブログを書くわけは

「書く」と言うのはおこがましく不遜に感じますから「書かされている」と言い直します。


今回、「代償」という言葉がすっぽり、はまりこんで来ました。

失った臓器の代わりを残された臓器が懸命に働いてくれています。

涙がでます。

健気に黙って働いています。

「代償」は医学用語だと聞きましたが、なかなか実感出来ませんでした。

やっと掴めました。

このブログは、既に信仰をお持ちのクリスチャンや、偉い先生方に見てもらうのではなく、病院で親しくなり、また私の知らない人生の友への応援歌のつもりで書かされています。

手元にあるのは聖書と小さな辞典だけ。

表現の間違い、意味の解釈などに間違いがあったらお許し下さい。

今の私に課せられているのは上から降り注ぐ言葉を書き記すことですから、校正などはしません!

リアルタイムで書かされますから、腕は痛く、体が辛くても書かされてしまいます。

時間はその時次第です。

中休みは、言葉のシャワーが止まった時だけです。

意図的にやれないのがたいへんですが、生還出来たわけは、まだ仕事が残されていたからだと、感じています。

いろいろご心配を頂き、内心じくじたる気持ちがありますが、何時か?神様からもう良い!と、お声が、かかる日を楽しみしています。

パウロの役目〜大祭司たちの画策

伝説によればパウロは背丈が低くやせていて、ひどい持病に悩まされていたと伝えられています。


私の洗礼名もパウロです。

2000年も前に生きていた、彼に親しみを感じています。

これが実感です。


パウロは、地中海に面したケンクレアの海岸で誓願を立てました。

髪の毛を剃り落とし、その髪の毛を海岸の砂浜に埋めて、キリストの弟子の決意を固め、長い苦難に満ちた伝道(布教)の旅に出ました。

彼の手によりユダヤの一寒村ナザレ村の大工の息子、イエスがキリストとなり、歴史始まって以来の人類救済に立ち上がった、その事実を、聖霊の助けにより世界中に広めたのは、他ならぬパウロでした。

キリストの霊光に射たれて大変貌を遂げた、パウロの波乱万丈の人生は彼の予想外の出来事だったのです。


人間の運命は大きな力、目に見えない力の中で活かされている。

果てしなく広がる大宇宙に、呼べば答えて下さるお方、ご意思が存在するのです。

私観ですが、他の宗教でも、人類救済が本物ならそれを認めても、なんのさしさわりはないはずです!

一神教と言われる、旧約の神エホバ(ヤアヴエ)の掟は、聖なるシナイ山で、モーセが受けた「十戒」に詳しく述べ伝えられていますが、厳しいものてす。

しかしイエス・キリストの出現で変化しました。

厳しい掟、律法一点ばりのユダヤに「愛、許し救い」の、福音をもたらしたのです。

当然既成権力にあぐらをかき傲慢、不遜に振る舞い、聖なる神殿で商いをさせ、不正と汚濁の中にどっぷり浸り切っていた、当時の大祭司、司祭たちには、キリストは脅威の対象、絶対殺さなければならない大敵でした。


暗殺も密かに謀られたと思います。


しかし神のみ心により天から地上に姿を現した、キリストに立ち向かう手段を持ち得なかった彼がが考えたことは卑劣極まりないものでした。

キリストの12人の弟子の中で、会計係のユダに目をつけ裏切り行為を画策しました。

臓器に霊魂が宿る〜本当の自分

よく聞く話ですが、臓器に霊魂が宿る?

非科学的な考えだ(笑)と、言われそうですが、何だか、2個の臓器を失ってみると、妙に納得出来るから不思議です。

それからもう一つあります。

ものの見方、感覚に変化が出ました。


端的に表現しますと、オペ以前のわたしと違う、もう一人の“私”に入れ替わった、人格転換を感じます!

「トランス?⇒転換」が、知らぬ間に内面で起きていたのです。

そのせいか?生活観、価値観、信仰的には霊感が研ぎ澄まされた、実感があります。

新しい私との対面、出会い、その生活が始まっている、納得出来るから不思議ですが?


やっと本当の自分に巡り逢えた!安堵感、実感が湧きます。

心が落ち着きます。

新鮮な感じです。

しかし、新たな疑問も生じました。

今までのわたしは一体誰?何者?この間、少し混乱が状態が続きました。

今は、さきにお話した通り、この私が自分の姿、本物なんだと確信しました。

人間という生き物は実に不思議な存在です!

私の第三の人生の始まりは、謎説きの旅の始まりだと、示されましたが、現実体験しての、スタートを切りました。


もう後に引き返せないと感じています。

この先どんな困難 試練が待ち受けていても進むのみです。


傷跡と癒し

おはようございます。

ここ数日間は天候不順でオペの傷跡が痛み辛いでしたが、お天気がよい日には、引きつるような痛みから解放されます。

また3週間ぶりに、ひどかった全身の発疹もかなりよくなりました。

お腹を30センチも切り割き、腎臓、胆のうを摘出するという手術は、人体にかなりダメージを与えるんですね。

頭で考えていたときより、実際体験して見るとたいへんなことでした。

右腎臓がなくなり、何だか体が左に傾いた、妙な感じがします。

しかし、見事な切口です。

ベテランの先生にして初めて可能な、きれいな傷跡は、お腹をかき回し、悪戦苦闘に耐えた証しです。

愛の導き手使徒パウロ

聖なるお方に出会い、人生が、劇的に、がらっと変わった人物がいました。

イエス・キリストを信じる、キリスト教徒を迫害した、タルソ(小アジアのキリキア州の首都)産まれのパウロです。

彼はベニヤ民族に属し、産まれて8日目に割礼を受け、ユダヤ教信仰の訓練を受けて育ちました。

彼はユダヤ(イスラエル)の首都、エルサレムにのぼり、当時の碩学ガマリエルのもとで律法について学んだ熱烈なユダヤ教徒でした。

したがって彼は、新興宗教と思われた、キリスト教徒が律法を軽んじ、神殿を無視することに憤り、キリスト教徒の迫害に乗りだしました。

キリスト教徒の殉教者ステパノの処刑にも立ち会いました。

パウロはキリスト教徒迫の目的で、ダマスコに行く途上、キリストの霊光に射たれます。

あなたは何故わたしを迫害するのか?

パウロは驚愕し、恐れのあまりその場に打ち倒されます。

彼は失明し、3日間、口もきけずにいました。

この聖なる体験こそ、パウロが愛の使徒に産まれ変わる大転換点になったのでした。

パウロは迫害したキリスト教徒のアナニヤという人物から、バプテスマ(洗礼)を受けます。

その後の活躍は、新約聖書に詳しく述べ伝えられていますから割愛しますが、彼の使徒としての働きは、聖霊が人々を愛に導きだすと説いたことにあります。

神の愛!愛に燃え立つ使徒でした。

2009-05-25

試練の日に〜枯れた骨の復活

あなたの境遇がどんなにつらくても、必ず幸せを噛み締める時は必ず訪れます。

神は試練を与えますが、また逃れる道を備えて下さいました。

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。
途方にくれても行き詰まらない。
迫害にあっても見捨てられない。
倒れても滅びない。
いつもイエスの死をこの身に負うている。
それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
コリントⅡ4:8-9

だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからである。
コリントⅡ4:16-18

わたしはたくさんの人々に出会い、様々な人生ドラマを目にし、人間が描き出す模様に接してきました。

悲しい出来事、素晴らしい喜び、悲嘆、感動!生きた命に触れました。

どの出来事も生きている証しでした!

望んでも肉体になれない命があります。

肉体に神の霊が宿る時人間は生き物になる!

これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。
見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。
そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル37:5-6

イスラエルでも我が国でも、古代人は生きて、子孫を残すために神を敬い、神に聞き神を相談相手に生きる知恵を身に付けて来たのだと教えられます。

謙遜、謙虚な人間の生き方を神は人間に教え諭し導き、だから人間はここまで生き続けられたのです!

至福の一時

自分がどんな人間であろうとも!

朝が来て太陽が昇ります。

風はそよそよと優しく草木にそよぎ、暖かい光は全身を包みこんでくれるのです。

果てしなく広がる青い空、白い雲、広い海、潮騒の音を聞いていると、自分の力では作り出せない素晴らしい神様からの贈り物を肌に感じます!

至福の一時です!

小さな殻に閉じ籠っていては、惜しい大切な時が豊かに何時も変わらず、旅人を待ち受けていたのです。

四国巡礼の旅の途中でふと!立ち寄った、海岸で太平洋の彼方から運ばれて来る、海の声波しぶきの歌に聞き惚れていました。

至福の一時でした。

2009-05-24

死刑囚と幼子

わたしの心に焼き付いた記憶を辿りながら、信じ難い記事を書くことにしました。

もしこの記事にお心当たりがありましたら、是非お知らせ頂きたいと思います。

新聞記事か?週刊誌か?定かではありませんが…

つぎのような出来事でした。

ある刑務所に殺人罪で死刑が確定した男が収監されていました。

この死刑囚の看守は若い人だと記憶しています。

彼は心の優しい人柄で、何とかして男が死刑執行前に自分の過ちを認めて、真人間に立ち返り、納得して、潔く刑の執行に臨んで欲しいと、切に願いました。

しかし、固く心を閉ざした死刑囚に、若い看守の願いは容易に届きません。

死刑執行が何時行われるのか?分かりません。

この男は世間を酷く恨み、根深い怒りを抱いていました。

悩んだ看守は突飛なことを考えそれを実行する機会を待ちました。

男の死刑執行日が内々に知らされました。

その運命の日がついに来たのです。

若い看守は、何と!自分の幼子、赤ちゃんを抱いて男の独房に入りいきなり男の腕に 赤ちゃんを抱かせたのです!

皆が、固唾を飲んで見守る中で、男は黙ってあどけない赤ちゃんの顔を見つめていましたが、やがて彼の目から大粒の涙が溢れ落ちました。

男の顔が歪むと号泣しました。

幼子の清らかで安らかな寝顔に、さしもの頑なな心が溶け始めた瞬間でした。

「俺にもこんな時があったのだ!」産まれついての悪人はいません。

彼は罪を知らない幼い頃の自分を、腕に抱いた赤ちゃに重ね合わせたのだと思います。

極悪非道の殺人犯が改心し、真人間に立ち返り、死刑執行の間際に、深い安堵感と、平安を得て真心から懺悔し、死刑に臨んだ!

そう信じたいのです!

罪の奴隷からの解放は、彼の肉体は死んでも永遠の命を得て生きることを意味します。

また、若い看守の愛の勇気には言葉がありません。

魂の救いの実証です!

自殺、殺人者は救われるのか?

古代イスラエルにとって死は蔭府(よみ)に下る恐ろしいこと、暗闇と沈黙の場所。

神との関係を断ち切られて影のようなものとして存在し続けなければならないと考えられていました。

ヨブ記 10:21-22また新約聖書にも、罪の償いはしなければならないことが、はっきり語り、引き継がれています。師イエスを裏切り、わずか銀貨20枚でユダヤの大祭司らと取引した12弟子の一人ユダは、良心の苛責から、アケルダマ(血の谷)に飛び込み自殺しました。

彼が死後救われるたか、どうか?は疑問ですが?しかし、キリストになられた(メシヤ⇔救い主)イエスは†字架の死と引き替えに人間の持つ罪の許しを神から得ました。

以後、人類は罪の重い縄目から解放された。

これが、キリストのもたらした新約の福音です!

キリストに信じて「自分の人生を委ねる⇔任せる⇔転がす。キリストを介して、神の側に自分の全てを、あるがまま、罪のそのままの体を転がす」あとは聖霊が働きわたしたちを危険からお守り下さる。

これを信じるか?否か?は個人の選択に委ねられているのです!

わたしは困難試練の時に、キリストに投げ身して人生の全てをお任せしました。

このブログは目の前に展開する不思議な光景をリアルタイムで書かされています。

霊は神からの賜

旧約聖書エゼキエル書に、霊についての記述があります。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたの内に置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
エゼキエル36:26ー27
霊は神からの賜です。

人間の所有ではないのです。

魂は肉体に宿るもの、はっきり区別されています。

イスラエル人は魂は、人間を具体的な一個の統一的、人格として考えていました。

イエスは、体は殺しても魂を殺すことができない(マタイ伝10:28)と言い、また全世界にも代ええない命(魂)の価値を説かれました(マタイ伝16:26より)。

昨日、お隣の韓国で 悲しい出来事が起きました。

前大統領の自殺です。ショツキングな悲劇です。

彼は遺書を残しました。

生も死も一つだと、言う意味の言葉を残し、誰も恨まないように等、残された人々への配慮がにじんでいました。

自殺の動機はいろいろ取り沙汰されていますが?、キリスト教徒の真摯な彼が死を思い詰めるまでの心の葛藤が、余人には、量りがたいものであったことは察しがつきます。

自殺は神に恵みを投げ返すことです。

さらに殺人は、神のご意思を阻害することです。

神に与えられた命を粗末にすることはイエスの御心に反します。自殺、 殺人いずれも罪を犯す事に変わりはありません。

たとえ全世界の財産を手にしても、自分の命(魂)を失えば何の益があろうか?イエス様の溜め息が聞こえて来ます。

世界中が平気で殺し合う!神無き世界は暗黒です!

わたしごとき、小さな者の声は喧騒の渦に巻き込まれてしまうかも知れませんが、やはり 叫ばずにはいられません!

「命を魂を大切に!」と!

2009-05-23

霊と魂の違い

古代ギリシャでは人間の肉体と魂は別々の存在と考えられていました。

肉体と魂の二元論です。

(魂⇔精神、感情、心)

何だか別々に考えると、人間が“部品”のようで馴染めません。

さて話はユダヤに移ります。

ユダヤに現れたナザレ村(貧しい村)の大工の息子イエスが、キリストと呼ばれるまで、母マリアと父親のヨゼフと家業の大工の仕事に励んでおられた様子が伺えます。

また、旧約聖書を開くと当時の生活様式が克明に書かれています。

ユダヤの人々に敬愛されて来た族長アブラハムその子イサク、時代が下がって予言者モーゼまでの聖書の記述は神の霊との交信の記録です。

信じる心の受信機能

キリストの復活が世界中のキリスト教徒に今も、根強く信じられているのは、史実に裏打ちされた劇的な出来事、奇跡の伝承を人々が素直に受け入れた結果だと思います。

信じるか?信じないかは個人の自由です。

確かなたとえがあります。
人間は神無しで生きられても神無しでは死ねない
人間の限界を端的に表現した言葉だと思います。

何かに?すがりつきたい時には、あるがままの弱い自分を晒けだしてすがれば、救いの手が伸びてくるのです。

孤独に自分を閉じ込めて、苦悶しないで、わたしのもとに来なさい!あなたを助けようと、待ち構えておられるお方が確かに実在します。

信じる心に受信機能が与えられます。

受信機が無くては宇宙を飛び交う様々な情報や見たい映像が見られないのと、原理は同じだと、わたしは考えています。

波長を神様に合わせる事が大切なんです!
難しい事ではありません。

教会に行かなくても、聖地巡礼の旅に出掛ける必要もありません。

あなたが今おられる、その場所で、神様に(天に)呼び掛けて見て下さい!

ただし途中で、何の反応も無い!これは駄目だ!嘘だと、思わないで頂きたいのです!

必ずあなたに、神様が希望の御手を差し延べて下さいます!信じて!

メタモルフェ(化体変貌)


サナギの時は枝にしがみつき、蝶に脱皮する時を静かに待ちます。

時が来て、羽化が始まります。

羽化した蝶は光を浴びて濡れた羽根を乾かします!

やがてその体に鮮やかな模様が現れて来ると羽ばたき、新たな命の旅立ちの瞬間です!

わたしは、病友にこの話をしました。

重たい肉体を引きずっていた時には、想像もできなかったもう一つの世界がありますと!

霊体は自由自在に、時間空間を飛び越えて、一瞬のうちに、行きたいところへ行きます。

愛する人の胸の中に何の抵抗も無く飛び込めるのです。

守護天使の役目も果たせます!


訃報


先程、血液内科の主治医 島田貴先生から親しかった病友KS兄の訃報が届きました。

正直、驚き、言葉にならない胸の痛みを感じました。

熱いものがこみあげて来るのでした。

無常感に襲われました。

何時か自分にも間違いなく訪れるその時を思い覚悟を新たにしました。

緊急入院した、血液内科の8階病棟の窓から朝、晴れていると霊峰富士が白雪に輝いて綺麗でした!

その姿を眺めながら、死後の命について少し、KS兄と話をしました。

彼は真剣な眼差しでわたしの話に耳を傾けてくれました。

わたしは切り出しました。
死は一過性の儀式です
人間の霊魂は不滅です。肉体が消えても、霊魂は死にません!
彼は 読書家でした。

いろいろな本を消灯後も熱心に読んでいましたから、たぶんわたしの話を理解されたのだと感じました。
天国は地上から始まっています。
死後、急に天使が現れて、天国へ行く訳ではないのです。
生きているときから、わたしたちは守られているのです。
何らかの理由で肉体を脱ぎ捨てて、霊体に蘇る、これは地上生活に適さない体になった時、わたしたちは、あの蝉や綺麗な蝶のように仮の衣服を脱ぎ捨てて、霊体に変化します。
メタモルフェと言います!サナギから蝶へ


死生一如

イエス様が弟子や民衆に説かれた死生観は、死の為に全てが消え去り、無と化すと言う考え方を根底から否定し、死を生に覆すものでした!

死を突き破る考え方に、当時の人々の驚き、戸惑いが即々と身に伝わります!
死人が生き返る?常識では有り得ないことです。

現に、ユダヤのベタニヤ村で死んだ、ハンセン病のラザロは墓の中で死臭を放っていましたから。

聖書の告げる記述には、白い布に包まれたラザロがイエス様の一言で蘇ったと書かれています。

奇跡は否定出来ません。

しかし我々の日常生活で、こんな話は有り得ないと考えるのが妥当でしょう。
ラザロの蘇生

生と死について

これから、少しずつ、わたしなりの体験を交えて人間に宿る霊魂と生死について書いて見たいと思います。

既に宗教関係書等に「人間の生死に関わる文献」が多数ありますから、このブログには、私的体験から感得した「オショチの死生観」と、言う形で書きます。

まず、人間は死んだら何処に行くのか?体が無くなれば、一切が“無”ではないのか?
と、よく質問されます!

命あっての物種、死んだら、何も残らない、唯白骨だけ?あなたはそれの答えを持っているのか?
持っているなら分かりやすく説明してくれ!
と、何度か質問されました。

人の生と死は人間の最大事だと考えます!

特に死は恐ろしいもの、悲しいもの、忌まわしいことだと感じる向きもありますが、わたしは少し違います!

死は生きている限り避けて通れない現実ですから、むしろ積極的に死を捉えたいと考えました。

神学校で学び、真剣に死を見つめたとき学んだ聖書の中からいくつかの驚くべき言葉が見付かりました。
わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる死者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。
ヨハネ伝11章25-26

2009-05-22

友の旅立ち

愛するオショチへ
とても悲しいお知らせです。
オショチの病友KSさんですが、先週5月14日に様態が変わり、意識が戻らないまま本日亡くなられました。
しばらくの間、集中治療室(ICU)で治療も行ってきたのですが、力及びませんでした。
山口先生が頑張ってくれました。
今までの強力な治療を乗り切ってきただけにとても残念です。
主にあって 慈恵医大 島田 貴
貴先生へ

えっ!信じられません!

あれ程生き抜こうね!と、誓いあったのに!

彼は6月9日のオショチの外来診察日に、「お見舞いに来ますよ!」と話しましたら、彼は微笑しながら、「残念です。その時は元気になり回復、退院して、いないと思います」と話してくれました。

ブログにも書きましたが!始めから彼とは相性が良くて、オショチの心にしっかり刻みつけた病友でした。

忘れられない生涯の心の友でした。

山口先生もさぞがっかりされたことと深く思います。

残された奥さんのお顔が目に浮かびます。言葉が見当たりません!

彼は彼なりにキリスト様のお話を真摯に聞いて下さいました。

何か予感があったのかも知れませんが?

今からお祈りします。

♪讃美歌「主よみもとに近づかん」と、405番の「山路越えて」をハーモニカで吹奏し、静かに野辺送り(前夜祭)を行います!

主よ彼の魂をあなたの御手にお委ね致します。

ふたたび死を見ることのない永遠の御国にお迎え下さいますように!

残された奥様、ご家族に平安をお与え下さい!

あなたの御子イエス・キリスト様の御名により慎んでお祈り致します!アーメン!ハレルヤ
主の僕

愛川オショチ合掌

2009-05-20

中休み

話がまた変わりますが、今日は松浦先生の診察日でした。

月曜には中井にある教会嘱託医のシオン診療所の町田隆弘先生の診察、治療を受けました。

発疹がつらくて、我慢の限界でしたから。

解毒剤をいただき、服用すると発疹がさらに出ます。

毒を出す力が出てきたのだと、感じました。

今朝、この薬を見て、松浦先生から体の発疹の痒みが取れる薬を少しいただきました。

「ぶろぐも仕事も程々に」と、言われました。

夢にまで現れて、わたしの体を案じて下さった、先生の言葉は、ずしん!と、響きました。

ぼちぼちのつもりでも、上から降り注ぐ言葉のシャワーに溺れそうです。
体が叫ぶのです!
いい加減に止めろ
暫く 中休みにします


追伸:

昨日は久しぶりに国分寺の横山健二郎先生から、歯の治療をしていただきました。

何だか、懐かしくて、生還出来た実感が湧きました!

松浦先生と同じく無理は禁物たと、言われました。

本当にに素晴らしい 先生方に巡り合いました。

薬局の薬剤師の先生方からも、親しい看護師の皆さん、医療関係者の方々からも、無事退院の祝福をいただきました。

大事にしないと罰が当たります
中休みに入ります。

では また!
オショチ

丹沢山系・遺跡など

丹沢山系最高峰 蛭が岳1673メートルと、町田の聖なる遺跡の関係は

町田市小山町、境川左岸丘の中腹に環状積み石遺構 (昭和43年(1968年)発掘)
東西9メートル南北7メートルの楕円形約3800-2800年前。
その下から縄文後期前葉(約4000年前)の周石墓、土杭、組石など40組が見付かっている。
軸の先にかすかに富士山が望まれ富士山爆発の畏怖からその沈静を祈って先祖の霊域に設けた!
あるいは長軸の西方に丹沢山系の最高峰・蛭が岳が望見出来、その山頂に沈む夕日に、一年という時の流れを知るためだったなどと、言われている!
ある新聞記事より

パワースポット

パワースポット=高磁束密度

風水では!エネルギー溢れる山を、祖山と言う。

流れを龍にたとえ、龍水、大地のツボを龍穴と呼ぶが、パワースポット磁気地帯では火山から噴出する温泉も含む。

『未来世界の聖地日田しかり』

屈斜路湖(北海道)⇒八甲田山睡蓮沼(青森)⇒蔵王山(山形)⇒榛名山榛名神社(高崎)⇒御岳三嶽神社(青梅、八王子)⇒大瀬崎大瀬神社(沼津)⇒昇仙峡(山梨)⇒伊勢神宮皇大神宮(伊勢)⇒龍神温泉(和歌山田辺)⇒王子が岳(岡山玉野)⇒大山祇神社(愛媛今治)⇒平戸島(長崎平戸)等々

山に分け入る

信仰者を集める霊山は日本にもたくさんあります。

また興味深いのは、風水(中国が本家の占いの一種)の示す、バワースポットの場所と霊山が一致することです。

わたしは魂のうめきから、神を求めて遍歴し、深山幽谷(しんざんゆうこく)に分け入り祈りました。

滝浴び、火渡りもやりました。

まるで山伏や修験者のようでしたから、山奥でばったり、彼等に出会うこともしばしば、ありました。
牧師が何故?
意気投合した修験者に聞かれました。

互いに気合いを掛け合い祈りもしました。

まともに見られない姿ではなかったのでは、と冷や汗が出ます。

次は?

霊魂の存在

小さな頃から不思議に、見えない何かに強く惹かれていました。

ある夜、怖い夢を見ました。
突然現れた黒い雲にすぽっりと全身包み込まれ、母親から引き離されて行くのです!

泣いても叫んでも母は知らんぷりです!

必死に、もがけばもがくほど、高く、速く、遠くに離れて行くのでした。

恐怖心に気が遠くなりそうでした。

訳が分からぬまま、悲鳴をあげました。

誰かがわたしの体を強く揺さぶりました。

ふと!目を開けると、そこに懐かしい母の心配そうな顔がありました。

寝汗でびっしょりです。

下着を取り替えて貰いながら、今見た恐ろしい夢の
話をしました。

じーっと聞いていた母が口を開きました。
お前は不思議な夢を良く見るね?
かぁちゃんには良く分からないけど、悪い夢じゃないよ
わたしは、人が死んだら何処に行くのか?しつこく聞きました。
分からないね?
だけど悪い事すると、地獄行き、善い事したら極楽だと、思うよ?
詳しいことは明日、西光寺の和尚さんに聞いてごらん、何か教えてくれるよ!
いつの間にか母親の寝息が聞こえてくるのでした。

小さな 灯りを見つめて、怖い夢を思い返していました。

これがわたしの霊魂の存在を是非知りたい、好奇心の始まりデシタ!

祖霊と信仰

日本人は祖先を大切にしました。

また“やおよろずの神々”を、お祭りしたり。

それがこの国の大切な精神文化を高め育てる、役目を果たしたのだと、親に聞かされました。

それが自然の姿でした。

子どもの頃、道端の道祖神に手を合わせたり、赤いよだれ掛けを首に掛けたお地蔵様が道行く旅人や、村人たちを優しいお顔で見守って下さる、それだけで暗い夜道も安心したものでした。

オペ前、あるいは?と感じて、遺書のつもりで書いた『オショチ句集』の44句に
「顔見知り
お地蔵様の
頭撫で
家路に急ぐ
子等ふたり」
は、今は亡き幼友達への鎮魂歌でもあります。

2009-05-19

ダビデ王の切ない讃歌

古代イスラエルの大王と呼ばれたダビデ王(西暦前1000-961年在位)の讃歌に、胸を打たれる詩がたくさんあります。

私が独立伝道を開始した時期、約36年前、生活難にあえぎ苦難と試練の毎日でした。

当てもなく、さ迷い歩く日々でした。

何の保証も無い、支援も無し、“徒手空拳”の唯一人の孤独な伝道の道は、何時まで続くのか?

神様からの召命は自分の錯覚ではなかったのか?

日暮れて悩みは深く、道をあてどなく歩いた日々が、今は懐かしく思い出されます。

神様との道行きは苦しくても、清らかで、わたしの魂を生き返らせて下さいましたから!

しかし、魂の救いが確信出来る日までの道のりは、長く、苦しく、祈りながら読まされた詩篇をここに書き記します。
いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えて下さい。死の眠りに就くことのないように敵が勝ったと思うことのないように、わたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び踊り主に向かって歌います「主はわたしに報いて下さった」と。
この詩篇の記者、ダビデ王が訴えた“敵”とは?後日、自分自身に他ならぬことに気付かされますが…

神様との道行きは、イエス様が後に弟子たちに示されたように、自分の†字架を黙々と背負う厳しいものでした。

しかし、わたしのくびき(農耕のために、すきを引く家畜が首につけた道具)は負いやすいのも、体験して見ると良くわかります。

魂が光を見い出すには人間の策は全て破壊されます!

神様の救いは人間の条件の果てた末にありました。

淤血(おけつ)〜汚染食品

淤血、血液がどろどろになる状態?

退院して4週間を過ぎた頃から、全身発疹に悩まされています。

これほどひどい発疹は、今まで体験したことはありません。

退院間際に若い看護師さんから、水分は十分補給するように、忠告されました。

目安は1日当たり、1リットルから1.5リットルです。

高齢になるほど、意識的に水分補給をしないと、どうしても水分が不足しがちで、血液がどろどろになりやすいと言われました。

私の場合も、あまり喉の乾きを感じないので、うっかりすると、淤血になりやすいので注意していましたが?



それに食材も、吟味しないと、いけません。

牛乳、卵、肉類など、飼育過程でどんな飼料を使っているのか?

野菜、果物類も、口にすることに慎重になりました。

特に、外国からの、配合飼料により育てられた前述の食材は、私の場合、体がアレルギー化し、敏感に発疹が現出してしまいます!

痛んだ体は、危険だと叫ぶのです!

思いがけない体験ですが、農薬漬けの汚染食品、産地偽造、汚染米など毒性の強い食品で、犠牲者が続出している現実が、術後の体で実感出来ました。

矛盾するようですが?今までも食材は相当吟味して来たつもりですが!「気を付ないと」と、しみじみ感じています。

2009-05-17

老年は内面性の成長期

アブラハム・へシェル(1907-1972)「老年は内面性の成長期」より
 私は次のことを提案したい。
 人が変わり、成長する可能性は、私たちが思う以上に大きい。老年は停滞の年代と思われがちだが、むしろ内面性が成長する時期である。老人は病人のように扱われるべきではないし、その隠退を社会の第一線から長く退いてしまった状態、と見てはならない。
 老年期こそ、それまでに感得しそこねた高い価値、身につけられなかった洞察力、頼みなかった叡智を私たちに得させるときだ、といってもさしつかえない。
 
 その時期は実に豊かな可能性をもった人格形成期である。長い人生で知らないうちに身についた愚公をやめ、将来の自己欺瞞の偽りを見抜き、人を理解し、思いやる心を深め、誠実な心の領域を広げ、公正さへの感覚を精錬することができるのだ。
 年齢を重ねた人は、大局的に物事を見、失敗の経験を積んでいるから、偏見と既得権益への飽くなき執着心を捨てることができる。その時に、もはや仲間を自分の前に立ちはだかる競争者と見ることはないだろう。
 老人のための大学が必要である。その教育の目的は、老人を忙しくさせておくことではなく、一瞬一瞬が偉大になるための好機である、と気づかせることにある。内面の純化は、少なくとも趣味や娯楽と同じくらいの重要である。心の中から、憎しみ、恨み、嫉妬の残渣(ざんさ)を取り除くことは、だれもが闘うべき確かな目標である。
 老年のために霊的備えをせよ。それをいかに深めるかを学べ。これは、若い時から心すべき命題である。昔から、老いた者ほど叡智があると言われてきたが、まさしくそうだ。しかし、年齢は叡智の保証書ではない。格言にいわく、
「賢い老人は、年をとるに従って賢くなる。粗野な老人は、年をとるに従って愚かになる」

2009-05-15

独り言

今朝の目覚めは?
余り良くない
何故?
食べ物は余程吟味しないと駄目だねぇー?
何故?
一昨夜からね
体に、ジンマシンが
出たり、赤い斑点が、出たり、引っ込んだり。
で、痒いの何のって
眠いのに
眠れない
おまけに、下着の端っこに足首が触れただけで、
赤くなるんだからね

食べ物のせい?
それしか考えられないょ!
口から入る物以外今は体に悪さする物はないと、おもうょ?

いや!
花粉症だってあるぞ!
それに、あれだけの大手術の後だからねぇー?
いろんな事があるさ!
余り気にするなょ

そうだね!
気にしないで
ゆるゆるやるよ

あと一言!
退院した後の生活の仕方に気を付けてね!
病院の行き届いたあの生活を自宅でやるのは無理かも知れないが?

うん
わかった!
好き嫌いは無しで食事も気を付けてやるから。
好きな物ばかり食べて病気になるのは、もう!こりごりだょ
痛い思いをするからねぇー。

偏食はいけません
それ?
誰に言ってるの?
ワシ!
ワシって?
オショチ⇔自分に言い聞かせてる

わかった!
先生の忠告忘れるなょー!
ハイッ

2009-05-13

市民病院つづき

ー 肝硬変歴ー

指摘されて約36年余、現在はC型肝炎ウィルスが、肝臓その他の臓器に転移した、兆候は幸いありません。

戸田先生が東大の医学部におられた時から、慈恵医大の教授に、さらに、せんぽ東京高輪病院長(4月定年退職され、現在名誉院長)の期間にも松浦先生の薦めを含めて診察を受けて来ました。

その間に培った先生たちとの厚い信頼関係は、揺るぎ無い物と感じました!

病気を克服する希望は、『寛解⇔臨床医学的に問題ない』所までたどり着くことですが、なかなかそう上手くは行きません。

しかし最後まで希望は捨てません。

話が脱線気味ですが、患者のいない治療は有り得ないし、医師のいない治療は不可能ですね

物事を簡単に整理して見ると理解しやすいので、わたし流の考え方を取り入れました。

そこで表題の『市民病院』の話になるのですが、市民病院は文字通り市民が参加して医師の先生方、看護師、薬剤師、理学療法士など専門の先生たちとの共同事業が、より良い病院を創り出すのだと感じます!

立場を変えて見れば患者が医師を育てる?

偉い先生方に叱られそうですが?

これは否定出来ない事実です。

人格医術に優れた医師、看護師の方々が増え働き甲斐のある病院創りは夢でしょうか?


市民病院

最近、地方自治体の経営する病院の閉鎖などショッキングなニュースがマスコミを通じて報道されます!

一体何が起きているのか?

その内容は、一般市民には分かりにくいことだらけです?

患者さんは元より、安心して生活が出来ない市民、あまりにも複雑で、政治がらみで、健康を害した時のことを考えると、不安が募るばかりです。

一方で医師や看護師たちの過酷な労働が根底に根深くある。

何か、医師、看護師、医療従事者が人間離れした、スーパーマン、スーパーウーマンのように錯覚しているのでは?と考えさせられます。

もし先生たちが心身を損ない、過労で次々に倒れたらどうなるでしょう。

医療制度の度重なる変革、医療行政の威圧的な現場の指導?何か変です!

今朝、同じ肝硬変の病友と待ち合い室で短い会話を持ちました。

話題は当然、自分の病のことです。

一番乗りして、50分待ち、診察は一分間、話半分にしても、如何にしたら納得出来る、説明と治療が受けられるか?

彼の言い分に耳を傾けましたが、無論聞くだけのことでした。
わたしの身内にも昔、医師がいましたが、過労が原因か?病に侵され、帰らぬ人になりました。

田舎の親族から聞きました。

口の悪い人は、
あん人は偽医者じゃけん、罰が当たりよつた。
ひどすぎます。


夢から決意したブログ

ある朝不思議な夢を見ました。
この体験は皆のもの、共有すべし!

公開しなさい!

ただ病むために与えた痛みではない。
ブログ公開の始まりでした。

それまでも、ホームページに体験記を書きましたし、また、この体のPETの写真、骸骨?まで公開しましたが、
まだ足りない!
と示されました。

牧師でも、個人の辛い記録です。

それでも、きっと、どなた様かのお役に立つための指示だと、受け留めたのですが…

*

ブログは一旦書き始めたら、余程のことが無い限り、止めるつもりはありません。

体力、気力との闘いです!

おかしな?事を書いた時は、読み捨てて下さい!

よろしくお願いします!

孤立

心身が病むと、孤立しがちになりやすい傾向が目に付きます。

自分の病気を知られたくない。

この気持ちは今回、嫌と言うほどたっぷり味わいました。

人目を避けたくなるのです。

この姿が自然なのだと、納得しました。

エネルギーがひどく消耗している時は、人の目を見るのが辛いのです!

エネルギーの消耗を防ぐ信号を脳が発信して、それに身体が従う。

これで体力の消耗を防ぐ。

「これで良いのだ!」を、体験出来ました。

無理は禁物ですね。

まず自分の本当の声を聞き取る。

それから少しずつ気持ちを整理して、回復を目指す

これは試して頂けたらと思いますが?

嬉しい誤算 その2

彼にわたしのオペの傷跡を見てもらいました。
こんなに切って、さぞかし痛かったでしょうねえー!
彼は自分のことのように受け止め、労りの言葉を掛けてくれました。
…来月また外来診察の後、お見舞いに来ますが…

ありがとうございます
だけど、もしかして退院して、ここにはいないかも知れませんよ?…
わたしは、彼の手を思わず固く握り言いました!
何と嬉しい誤算でしょうまだまだ先かな?と、内心心配していた矢先でしたから
難病がたくさんあります!

現代医学の粋を集めても助からないお方の闘病記をよく見かけます。



嬉しい誤算 その1

昨日、血液内科の主治医・島田貴先生にお聞きして病友KSさん(59歳・男性)のお見舞いが出来ました。

手土産は、あんパンです。

彼の好物ですから。

緊急入院した、3月末、彼のベットの隣に入り、親しく、いろいろなお話が出来ました。

忘れ難い病友です。

あの辛い白血病の治療に黙々と耐えておられる姿に打たれました。

一度、白血球をすべて取り除き、悪い物(癌)を抜いてから、新しい白血球をまた体内に送り込む、この治療を4回繰り返す、と聞きました。

ベットをビニールシートで被せ、マスクをした姿を見ました。

言葉に表現仕切れない痛みが続き、時折見せる、表情から苦しみが伝わって来るのでした。

端正な顔立ちの紳士。

もし、突然の病に体が侵されなければ、颯爽と仕事に励まれて、社会人として、また、ご家庭でも、幸せに暮らして当然だと、わたしは考えたりしていました!

ある日、予期せぬ事故や病、さまざまな災難に人間は襲われます。

決して他人ごとではありません!

明日は我が身に起きて何の不思議もありません。

彼がある時、呟(つぶや)きました。
6月が越せたら生きられます!駄目かも知れませんが?

しかし最後の最後まで諦めないで、頑張ります!
昨日、恐る恐る彼のベットを覗いた時、意外な姿を見せてくれました。

事前にわたしの見舞いを、主治医の島田貴先生から聞かれていたせいかも知れませんが?

久しぶりに暖かい笑顔で迎えてくれました。

窓から差し込む初夏の光が柔らかく彼のベットを包みこんで、癒しの気配と希望を感じさせてくれました。
4月14日でしたか?
術後のわたしの身を案じて下さり、奥さんが、8階の血液内科の入院病棟から、5階の泌尿器科の病棟までお見舞いに来て下さいました。

57羽の折鶴のお方!
KSさんご家族!

痛みを分かち合う、病友に励まされ 追い込まれた苦しみの中で心が救われる思いでした。


2009-05-12

今日の診察結果のご報告です(つづき)

さらに島田貴先生に質問しました。

肝臓に異変はなかったでしょうか?。
外科の岡本先生はベテラン!

胆のうを摘出するとき、肝臓にも詳しいので、当然チェックはしていると、何か異変があればその箇所を調べます。

胆のうと肝臓は切り放せないから…
思いがけない、話しを聞けました

肝臓の主治医、今までの長い間に戸田剛太郎先生、松浦知和先生の治療効果が確認出来た次第です。

感謝。

とにかく、今回のオペは成功しました。

後は静養しながら、癒着を起こさないように自己管理に励みます。

追伸でした。
オショチ

今日の診察結果のご報告です

泌尿器科の池本先生が、腹の傷跡を診て安心された!

同じ年齢の人と比較して回復ぶりにびっくり!

痛みは、回復過程で当たり前のこと。

もっと痛い人もいるそうです(ナースの話)。

特に心配なし

痛み止めはイブで十分、薬の処方もありませんでした!

島田貴先生の診断は、 “偽悪性リンパ腫”で、“炎症”とのこと。

これからは、月1度の外来で経過を見ます!

今後、気を付けることは、
1.過食
2.運動不足
3.オショチは動き過ぎる傾向があるので、セーブして下さい!
4.3か月は腸閉塞の危険があるから、夏場の水分補給等、気を付けて下さい!
食欲も回復しました。痛みは半減しました

今、オペをした右脇腹に少し残った腫れの痛みがあることで、片腎臓の負担を意識させて、動き過ぎる悪い癖を、無意識にコントロールする!

痛みには大事な役目がありました。

島田貴先生は、以前の健康時の意識のままだと危険だから、「半年は、要注意」と言われました。

十分気を付けてやります!

2009-05-11

おーい!死ぬなよー!の意味


荒っぽい詩

年齢(76歳)に似合わない、なんだか本人の書いた詩じゃないみたいですが、オショチの精神年齢、血が騒ぐ

「おーい!死ぬなよ!」

このフレーズで、インターネットを検索する方々の、様々なことで苦しむ方々の、人生苦を共有したいたいのです。

愛の樹のネット教会の礼拝にお招きしたいのです

何かご質問は?

オショチ

ブログを書く使命

これはオショチの命尽きるまで続く

詩に託した人生のロマン

夢見る楽しさ

神学、聖書の史実、真理、信仰、告白、証…

敷居の高い、キリスト教会が苦手な方への、ネット教会への参加

普段の生活の中で危険から身を守る方法

他者の幸せを願う祈り! 祷告!

観念的信仰のからの脱皮、利己的打算、嫌悪反感などに、支配されない生き方など!

日々の楽しい生活の営みは如何にしたら手に入るのか?

病に倒れた時の心構え、家族の対応の仕方など

気がついた点から、少しずつ書き進める!

これはオショチの命尽きるまで続く

おーい!死ぬなよー!

1)おーい!死ぬなよー!

2)皆んなしぶとく生きようぜ!
   生きる権利を奪う奴は許さねぇー

3)癌だって、何だって、
  生きる権利を奪う奴は許さねぇー!

4)癌よ!お前に愛する家族はいるのかい?

5)お前も家族持ちなら家族の幸せ奪うなよ!
  奪う奴は許さねぇー!

6)皆んな幸せに生きる権利があるんだぜ。
  奪う奴は例え神でも許さねぇー!

オショチ

誓いの言葉を

今日の命が与えられ、改めて使命感を確認いたしました!

苦難と汚濁の世の中に生きて、貴方の清らかな「命」と引き替えに、果たすべき使命について、誓願を決断しました。

命の価値に値する、わたしの仕事は、人々の日々の暮らしに、苦しみの最中にある、兄弟姉妹への責任、あなたに実際に役立つための責任を含むのだと!

だからこそ体を労り、まず、そこが大切な第3の人生の謎解きの出発点だと。

折鶴が昨夜夢に現れ、優しく、静かに語り掛けてくれました!

57羽の千羽鶴

病友Kさんから千羽鶴が届きました。

未知の病友でした。

短冊を見ると、
平成二十一年四月二十七日召天 享年六十二歳
と書かれてありました。
二月に肺癌告知を受け、入院となる。病床中、同じく闘病しているオショチの回復を願い、「力が入らず震える手で申し訳ないが」と、折鶴を折り、届けて下さる。白寿の母を介護中の急逝となった。
一昨夜、中井のマリア様のみ手に、57羽の千羽鶴を白い糸で結びました。

「安らかに天国で永遠の眠りについて下さい!」と、心から祈りを捧げました。

暖かく、辛いお祈りでした。



わたしの知らないお方が、わたしの知らない時、密かに、自ら苦しい肺癌告知の後、苦しい闘病生活の中で、見知らぬ病友のために折り鶴を…

ベットの上で一人静かに、震える手で一羽一羽を、57羽まで折り続けて下さり、帰らぬお人になられた!

溢れくる涙を流れるにまかせ、 一夜を過ごしました。

静謐な愛がある!

愛の底知れぬ深さに、わたしはすべての言葉を失いました。

唯一言!「貴方は誠に人生の勇者でした!」の言葉をもって、慎んで弔辞と、させて頂きます!

2009年5月11日
アーメン!ハレルヤ
オショチ合掌


57羽の千羽鶴

2009-05-10

老、病、死

老いてゆく苦痛を、誰かが書きました。
青年よ
君たちには、分かるまい!老いてゆく者の苦痛が!


病に苦しむ友に
「あなたの重荷をわたしに預けなさい!あなたの重荷をわたしも負う!」
「老、病、死」から、逃れられない人間の定めから宗教が生まれました!

何教であれ!現実的な人間の苦しみを根本的に解決出来なければ?存在価値が疑われます!

拙著「オショチ句集」は死を予感した、遺書です!

これを書き上げてから、4月13日に慈恵会医科大学付属第三病院の泌尿器科・池本先生のオペに臨みました。決心が要りました!

オショチ句集

病むことは!

大病すると気が弱くなります。

すべてが灰色に見えます!

暗い悪いほうに物事が運ぶのではないか?など、悲観的になりやすいです!

そのような時、やはり心の支えが無くては苦痛、絶望に対応できません。

つくづく人間の弱さ限界を痛感します。

ある国の指導者の強気一辺倒の姿勢が崩れ、最近、自分の健康に自信を無くしたような、弱さとも取れる記事が新聞に掲載されました。

事実なら「彼も人の子」何か病友として、親しみを感じました。

独裁者は表向きの姿、本当は平凡な生活に憧れていたのでは?

ふと!頭の中をよぎったものがありました。

心の旅路〜あとがきから

さて話は変わりますが、愛の樹のホームページに拙著が並んでいます。

その中の北海道伝道旅行を記した『心の旅路-苦難の中に身をおいて知る 神の愛』の最後に、こんな気持ちを書きました。
今回の北海道伝道旅行に、弟子の飯田ヤコブ士郎兄が群馬県の伽葉山まで往路アイン号を運転し、見送りを兼ねてついて来てくれた。彼はこの小旅行の ノートの冒頭に「清浄、透明感につつまれる。何かが生まれ育つ予感!」と 書き残し、沼田駅で別れた。
私はかけがえのない多くの友を神から与えられた。もし人が愛し合うことをやめたら、すべての世界が、敵対するかのように思えたら、私などとても生きてはいけない。
心身共に疲れ果ててしまう。
おそらく、そのために生命を全うすることは出来ないと思う。死出の旅路は唯一人だけで寂しく、はるか遠くに行かなければならない。だが私はキリストというお方に出会ったときから、本当に変えられてしまった。
敬愛し、助け合い、慰め合うことを、主の†字架に視た。私がもしキリストに出会うことがなければ、手のつけられぬ悪人になりさがっていたかもしれない。
我が内に恨みが残り、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を死に変え、ズタズタな傷付いていたと思うとそら恐ろしくなる。
又、愛欲の世界に溺れ、煉獄の中に、地獄の業火に身を焦がし、救われず、その苦しみに己一人であたらなければなかった筈である。それが全く違った結果になってしまった。
キリストを知り、神の慈愛の世界にその光の中に導かれた時、私の目の前に真実の道が光り輝いてみえた。
この世は慌ただしく去って行く、私たちの目に頼りと見えたもの、力になると感じたものは私の錯覚に過ぎなかった。
私は今回の伝道旅行を通して、更に深い神のみこころにに触れた思いがする。弱い体は、恐れ、苦痛から逃げようとした。 しかし、私の内なる霊は神のみ声に従った。
私は今、改めて、あのハンセン病者、ラザロの姉、マルタに言われた、イエス様のみことばを思いおこす。
「わたしはゆみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネによる福音書11章25-26)
「はい、しもべは信じます。
これが 私の道である」
アーメン!
筆者合掌

「あとがきにかえて−キリストと私」より
心の旅路